マクロス7擁護論  by Dragonfly

熱気バサラ
「マクロス7」主人公


マクロス7を擁護するにあたり、まずマクロスプラスについて語っておく必要があると思う。それは両作品が同時期に制作されたという事実が、共通の目的が故のことだと私が信じているからだ。両作品はもちろんマクロス10周年を記念して制作されたわけであるが、だからといって映像作品を同時期にリリースするというのは普通はしない。喰い合いをおそれるからだろう。それを敢えてやったのは、10年と言う節目にマクロスの負債を清算したいと考えた河森正治氏の強い思いがあったからではないだろうか?

では、マクロスの負債とはなんだろう?
プラスでの清算を期したそれは、『ゴースト』の存在だと思われる。よくSF論争をする際に槍玉に挙がるのが「宇宙空間での戦闘で、兵器に人間が搭乗することの是非」である。宇宙では人間の生存環境を用意するだけでも相当な労力を要するし、人間の耐久力が兵器の機動性に枷をはめることになる。つまり、人間は邪魔で足手まといなのだ。

そこで、何故人間が乗らなければならないか?という議論に発展する。マクロスはこれに無人戦闘機ゴーストと強化された兵士である巨人族というかたちで答えている。劇中でゴーストは、主にバルキリー出撃前の露払いとして扱われていた。それはゴーストが全機発進した後にバルキリーにスクランブルがかけられていたことから推察できる。おそらくは無人であることの利点を最大限に生かして真っ先に出撃、できるだけ早く敵と接触して戦場設定、足止めを食わすのが目的だろう。

しかし、逆に言えば、そのくらいしか使い道がなかったのではなかろうか?マクロスが落ちてきたことによって、人類は素材工学や電子技術、エネルギー技術を著しく発展させたが、その中に情報技術はない。そのことはゼントラーディが生きたコンピュータである情報将校を使っていることからも窺える。つまり超技術満載に見えるマクロスにあって、情報技術、AIの育成と言う点だけは現代のそれとさほど変わりないのだ。であれば、無人戦闘機に戦闘の全てを託すわけにはいかない当時の事情と言うものが見えてくる。

だが、なまじっかゴーストという解答をしてしまったために、その後のマクロス(の歴史)には負債が生じたのだ。「AI技術の向上により、いつか有人戦闘機が廃止されるかもしれない」それはマクロスにおいてバルキリーの否定であり、それに拠る物語の否定である。SF的な観点から見ればそれもまたひとつの方向ではあるが、マクロスが物語である以上、否定すべき道だろう。

『今度のマクロスでは廃止されたバルキリーに変わって無人機ゴーストが大暴れ! プロトデビルンはスピリチアを吸収しようとするが、無人なのでへっちゃら。ファイヤーゴーストに乗った黒い箱が「オレのウタをキけ〜」』って、ギャグとしては面白いかも知れないが…。

そんな愉快(笑)な未来を回避するためにプラスではゴーストとの確執にけりをつけている。どうけりをつけているかは本作を見て確認してもらいたいし、けりをつけるためにどんな仕掛けを用いているかはレイコック氏の批評に詳しい。なお、もうひとつの答えである「巨人」についても、マクロス本編の3クール目や劇場版エンディングにて過程が示され、本作やマクロス7にてけりがつけられている。

さて本題に入るが、では一方マクロス7で清算しようとしたマクロスの負債とはなんだろうか?

ひとつは「正史論争」であると私は思う。マクロスはTV版と劇場版で設定が異なるため、どちらが正しいのか?という論争が常に付きまとっていた。それに「どちらも正しく、どちらも正しくない」と解答を突きつけたのがマクロス7だ。
劇中、エキセドル参謀が劇場版そのままの姿、大きさで登場する。一方、マックス夫妻はマイクローン状態で登場し、あまつさえミリアは「思い出の機体」と称して真っ赤なVF−1Jミリアスペシャルをバルキリーフェスティバルに出品する。つまり、マクロス7はTV版でも劇場版でもない第3の立場をとるのだ。

当時、私も少なからず混乱したが、河森正治氏の「劇中劇のようなもの」発言で納得がいった。つまり、マクロスという作品はそれぞれがその世界で起きた事件を元に制作された番組で、制作時期や製作者の意図によって内容が変わりうるという訳だ。
例えば、毎年と言っていいほど新作ドラマが制作される「忠臣蔵」だが、当然のことにキャストもスタッフも違う。話す科白も違えば、キャラクターの役どころだって変わりうる。製作者の意図によっては正邪の逆転すらあるだろう。忠臣蔵の敵役といえば吉良上野介だが、実際は善政をしいた名君で、(物語上)どうも濡れ衣を着せられた疑いがある。そういったことも踏まえてか、最近放映した歴史を検証するドラマ仕立ての番組では蔵之助が上野介を逃がしていたという説を採っていた。

この劇中劇発言に苦言を呈する方も居られるが、私ははっきり言って嬉しかった。これによりマクロスはガンダムが陥っているオフィシャルという名の檻に囚われずにすむし、想像力が豊かな者にとってマクロスという遊び場は開放された公園のように自由な空間になったのだ。この意義は、なによりも制作側の自由さということで意味をもつ。苦しい後付け設定を前作に押し付けることなく新作で新設定を設けることができるからだ。作品間の矛盾は、ファンが自分で解釈して埋めていい。

例えば、マクロスの年表では、2031年に映画「愛・おぼえていますか」が公開されたことになっている。
実際の事件から20年が経過していることから想像すれば…『現役世代のVF−1はほぼ現存しておらず手に入るのは改良型のPlusのみ。デストロイドも重バルキリーに取って代わられつつあって手に入り難い(退役軍人3人組が私有していたモンスターを借り出せたのは不幸中の幸いだっただろう)。ドキュメンタリーに徹するには材料が少なすぎる上に、その方向性の類似作品は既にごまんとあったはずだ。(マクロス世界の)監督は悩んだことだろう。「この状態でドキュメンタリーとして映画を作っても2番煎じの亜流で終わってしまう」と。ならば「多少の歴史的事実には目をつぶり、判りやすくエンターテイメントとして魅せられるものにしよう」と思い切ったのではないか?
歴史上この作品は大ヒットを飛ばしたことになっているが、反面、史実を捻じ曲げた怪作として批判を受けたのではないだろうか。さらには既に巨人としてのゼントラーディ人のいないご時世、マイクローン化して普通に暮らしているゼントラーディ人からは相当に抗議されたのではないだろうか?』 勝手な想像は膨らむ一方だ(苦笑)。

マクロス7はTV版でも劇場版でもない第3の立場をとることで「正史論争」にけりをつけた。これは、マクロスの続編を作り続けていくにあたって清算しておかなければなならない負債であった。マクロス7はその役目を充分に果たしたと思う。さて、マクロス7で清算しようとした負債はもうひとつある。それは「歌」だ。

ご存知のとおりマクロスでは歌が重要なポイントを占める。それがリリー・マルレーンにヒントを得たことを知っている人も居られるだろう。因みにリリー・マルレーンとは第二次大戦中に唄われた歌で、敵も味方もラジオからこの唄が流れる時間になると戦闘をやめてこの歌に聞きほれたとか、敵味方の兵士が一緒になって歌ったとか逸話を残す名曲である。

この曲自体は単に「酒場に歌の上手ないい女がいる」というだけの曲なのだが、その詩の端々に平和な日常を垣間見せ、妙に郷愁を誘う。そのことが兵士たちに憩いを与え、戦闘すら放棄させるに至り、平和・反戦のシンボルとまで言わしめたのだろう。

では、それをモチーフとしたマクロスで、歌はどうなったのだろう?答えは簡単。兵器になってしまったのだ。ゼントラーディに絶大な効果を及ぼす最終兵器「ミンメイアタック」として。ミンメイの言動に多大な影響を与えるカイフンを平和主義の軍隊嫌いにしたりすることで、積極的に歌が兵器として使われないよう釘をさしたりしてはいるが、もちろん焼け石に水。

マクロスIIではそのものずばり「ミンメイアタック」を統合軍はおろか、敵のマルドゥークまで使ってくるし、ゲーム「スクランブルバルキリー」ではバルキリーは「ミンメイフィールド」を張って触れた敵機を寝返らせる。直接兵器利用ということではなくとも、ゲーム「VF−X」では人質にとられたアイドルグループを特殊部隊に救出させたり、ミンメイの月面コンサートを警護した「ミンメイ・ガード」など統合軍が歌や歌手に関与し統制していた事実が見出せる。おそらく初期移民船団のゼントラーディ遭遇時のマニュアルには、「全帯域波で流行歌を流すこと」と書かれているのではないだろうか?そう思わせるほどマクロスでは歌=兵器というイメージが出来あがっているのだ。

これではモチーフを持ち出してきた側としても不本意であろうし、なにより今後のマクロスに悪影響を及ぼしかねない。マクロス7は、このイメージを払拭すべく作られたといっても過言ではないだろう。それを解き明かすために、「ロボットアニメ史上最も変な主人公」とレイコック氏に言わしめる熱気バサラの言動を検証してみよう。

『バサラは戦場にバルキリーで乱入し「戦争なんてくだらねぇぜ!俺の歌を聞け!」と叫んでから唄いだす』まずテーマは歌であるからバサラは歌を唄う。唄わせる目的は歌のイメージを原初のモチーフに戻し反戦平和の象徴にすることだから、彼の動機も反戦平和。反戦平和を実現し、歌と結びつけるため歌で戦闘を止めさせたい。だから戦闘中に唄う。ただ唄うだけで戦闘は止まらないし、画面上、歌=反戦平和と結びつきづらい。そこでバサラはバルキリーに乗って戦闘に乱入。両陣営の間に直接割って入る。さらに、軍の命令を無視し制止を振り切ることで、軍事利用されてきた歌と歌手のイメージを払拭。(また、ジャミングバーズのように軍に利用され、しかもそれすらも果たせない存在を当て馬として用意する)というのが私が読んだバサラの行動の(制作側の)裏付けだ。

どうだろう?バサラの印象が少しは変わっただろうか?いや、変である事に違いはないんだろうが(苦笑)。
バサラは終始この姿勢を貫き、一時期軍に利用されかけるも最終的には敵の大ボスを改心させて戦争を終結させている。マクロスの生み出した業を越え、真に『歌で銀河を救った』瞬間だったのだが、「撃ち落してやる」とマクロス7を否定していたファンの目に、その勇姿は映らなかったのだろう。

私はこれらのことを以ってマクロス7が面白いとかマクロス7を認めてくれとか言い立てるつもりは毛頭ない。マクロス7のテーマが伝わっていないのは大抵の評価を聞けば明白であるし、そのテーマにしてもマクロスを見た世代でないといまいちピンとこないだろう。 作品をそれ単体で評価できない点は私でも擁護し難い。それに、結局のところエンターテイメントはその人にとって面白いかどうかだけが問題だからだ。

確かにマクロスにハードな戦闘シーンを求める人から見れば「戦場にバサラみたいなのがいたらジャマだ」ろう。だが、「マクロスだから」とか「マクロスなのに」という見方はマクロスを小さなものにしやしないだろうか?過去の作品の枠内で続編を作ることは、その作品の枠を狭めていかないだろうか?

元々マクロスは、シリアスな舞台設定と荒唐無稽な展開が同居する懐の深い作品だと私は思っている。そしてマクロス7は、シリアスな戦闘シーンに水を差すことでマクロスの枠を越えて…、いや、枠そのものを外そうとしたのでははないだろうか?その意味で、マクロス7は充分にマクロスらしい、いやそれ以上の作品だったと思えるのだ。

いみじくもレイコック氏は『熱気バサラというキャラクターこそが本作の核であり、スタッフの描きたかったものなのであろう』と看破しておられる。まさにそのとおりだ。それは、バサラがマクロスという器を叩き壊して、中身をより大きな器に移していく姿を見る行為に他なるまい。

私は、危険な戦闘宙域に非武装バルキリーで飛び込んで唄いだすバサラの壮挙に喝采した。それは、「乗って唄える」マクロス最強の主人公の姿だったからだ。同じように唄うことを強要されるジャミングバーズが恐怖に声も出せないのを見て、彼の信念の固さを確信した。歌の力を勘違いするミレーヌを怒鳴りつける彼の姿に、その真意を見た。私にとってマクロス7は充分面白い作品だったし、プラスと併せることでマクロスの抱えていた問題にけりがついたことはこの上ない喜びだった。再び言うが、私はマクロス7が面白いとか認めてくれとか言い立てるつもりはない。だが、マクロス7とプラスの2作品を以って、マクロスの抱えていた負債が完済されたことだけはファンに知ってもらいたいのだ。

マクロスファンとして。


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