あしたのために

矢吹丈
「あしたのジョー」主人公

ギラギラとした照明の下で、己の野性を剥き出しにして殴り合う2人の男。
1人の男が相手ボクサーに左ストレートを放った瞬間…。
グワッシャァァァァァァン!!
何かが叩き潰されたような音。
画面に映るのはギラついたライトと血飛沫…。
解説者も、観客も、もちろんテレビに釘付けになっていた我々も何が起きたか理解出来ない。数秒の後まず左ストレートを放った男に相手ボクサーの拳がめり込んでいるカット、続いて左ストレートを打たれた男がその左拳を頬に食い込ませているカットが映る。
そしてその男が口元を不敵に歪めた瞬間、最初に左ストレートを放った男がマットの上にグシャリと埋もれる。ここで我々はようやく事の顛末を理解する。

「クロスカウンター」

…そう、「あしたのジョー」主人公・矢吹丈の必殺パンチである。

「あしたのジョー」…このマンガ史において一際光る傑作は、スポ根ブームの立役者である劇画作家「故・梶原一騎(高森朝雄)」氏と、「ハリスの風」等でヒットを飛ばした大物マンガ家「ちばてつや」氏の2人の情念が渾然一体となった奇跡の作品である。当時この作品は社会現象まで引き起こし、作家の夢枕獏氏は「あしたのジョーを読むためにだけ生きていた時代があった。」とまで語っている他、よど号ハイジャック事件の主犯格・田宮高麿は北朝鮮に向かう機内で

「共産主義者同盟赤軍派万歳!そして最後に確認しよう。我々は『明日のジョー』である。」(原文まま)

等という宣言をしている。
更にマンガにてジョーのライバル「力石徹」が死んだ際は、俳優の寺山修司氏等により実際に葬式が行われている等、実は後の「ヤマト」や「ガンダム」より先に一般社会を巻き込んだ社会現象を起こした作品と言えるのかもしれない。意外な事に、発行部数等を考慮すれば他の人気漫画には遠く及ばなかったりするのだが、それでも未だ漫画史上最高傑作とヒ本作を推す人は多く、人気作家の夢枕獏氏も、愛蔵版の最終巻にて

「あしたのジョー」を読むためだけに、生きてゆける時代があった。他に、生きる理由が全て喪失してしまったとしても、「あしたのジョー」の続きを読むためにだけ、次の一週間は生きてゆけるだろうと思ったことがある。

等と解説に書いていたりする他、タレントの千原ジュニアも「他のマンガとはジャンルも格もちがう」とまで発言している。私とてライブで「あしたのジョー」を体験した世代ではないものの、そのドラマ性…矢吹丈という男の姿勢、言葉、生き方…全て、自分には到底無い…持ちえないものを強烈に感じ、特に心が折れそうになった時、嫌な事が続いた時等はついすがるように、憑かれた様に読みふけてしまう作品なのだ。そういう意味でもこの「あしたのジョー」は記録に残るのではなく”記憶に残る”マンガと言えるだろう。

そういえば、よど号事件での田宮高麿の引用やら、全共斗でもバイブル的に扱われたなんて事から、「あしたのジョー」を「赤軍派や共産主義の精神的支柱」なんて評する人も多い。ただ、本作の研究本「矢吹丈25戦19勝(19KO)1分」にもあるのだが、倒れても倒れても立ち上がり、最後には勝利を掴む、という部分からの比喩であるのならそれは「あしたのジョー」への誤解だろう。ジョーは決して栄光を掴んだ訳ではないし、そもそも栄光を求めて拳闘の道に足を踏み入れた訳でもない。結果として東洋太平洋のバンタム級のベルトを巻く事になったが、それは飽くまで”結果的に”だ。そもそも、矢吹丈という男は最後に勝利して栄光を掴むどころか、ひたすらに倒れ、負け続けたまま散っていった男なのだ。この「あしたのジョー」は一般に「スポ根」というジャンルで括られてはいるが、スポ根ではない。ジョーは決してボクシングというスポーツで正々堂々と青春を謳歌している訳ではないし、他のスポ根モノとは異なり勝利の為に、栄光の為にというベクトルで生きてはいない。テレビアニメの主題歌にて

♪サンドぉ〜バッグにぃ〜浮〜かんで〜消ええるう〜憎いぃ〜アンチキショ〜ウのぉ〜かぁ〜おぉ〜めがぁ〜けぇ〜

と歌われているように、己の中にあるどうしょうも無いドロドロとした情念をただひたすらに拳闘(ボクシングではない!!)にぶつけているのだ。ココが「あしたのジョー」という作品が他のスポ根マンガとは一線を画している特徴でもあろう。弾圧やらなにやらに耐え続け、最後には革命を実現するという意味での「あしたのジョー」崇拝というのは、そういう事で作品事態を些か履き違えたもの、と私などは思うのだが。言うなれば、赤軍だの何だの以前に、その世代へ多大な影響を与えた、というのが正解であって、本作自体は政治臭のしないマンガ…よって別段左翼的な思想とかとは基本的に無関係だろう。

そもそもジョーはあまりにも自虐的である。彼の得意技であるクロスカウンターという技も、一般的なボクシング用語に照らし合わせると相手の左腕越しに右フックを相手の顎に見舞う技…決してジョーの見せるそれのような相手のパンチを真正面で食らいつつ相手を仕留めるという玉砕パンチではないのだ。その他、対力石戦までジョーが頻繁に用いた「両手ぶらり戦法」にしても相手に「さあ、打って下さい」と言わんばかりのファイトスタイルであるし、「矢吹丈25戦19勝(19KO)1分」での豊福きこう氏の集計結果によると、ジョーは対戦者にパンチの数では完全に打ち負けているのである。

そんな自虐的なファイトスタイルの発端は、自分を捨てた両親に対する憎しみ、ひいては自分の置かれている現状を作った社会そのものに対する深い劣等感、虚無感によるもの…と私は考えていた。確かに、彼自身の人格を紹介していく物語冒頭のセリフにはそういった哀しく、虚勢的なものが多いのは事実だ。

その極地が鑑別所での精神鑑定である。ジョーはドヤ街の貧しい子供達に慕われ、ガキ大将に収まる。そして数々の窃盗、詐欺、暴力沙汰を巻き起こして遂には補導されてしまう。そうして送られた鑑別所での精神鑑定は彼の社会に対する強がりが賢著に現われている。精神科医にある言葉から連想するものを挙げろと言われたジョーは、次のように答えているのだ。

赤→血、真っ赤な血、ボタボタと滴る血
花→(鼻)血、鼻から噴出す血
両親→植木等、無責任

愛→居眠り、孤児院の先生の「お前を愛するゆえに」等という説教を聞くたび居眠りをしていた。
親切→酔っ払い(自分をかばってケガをし、拳闘をやらせる為に世話までした丹下段平)

哀しいまでの虚勢である。別段「心理学」等といった学問を専攻していなくとも、普通の人間であればこの時のジョーのセリフは大人達への、そして社会に対しての精一杯の強がりであることは読み取れる筈だ。しかし専門家である筈の精神科医はこのたった5問でジョーを

「この少年の性格は残忍で非情で利己的で…まるで乾ききった砂漠だ!!草一本はえとらん!!」

と断罪し、特等少年院に送られてしまうのだ。可哀想なジョォォォォ〜!!(声:藤岡重慶)

しかし、コレだけで彼のファイトスタイルが自虐的なものが彼自身の生立ちに由来する、と断定して良いものだろうか。結論から言えば、実はそうではないのだ。確かに彼は粗暴だし口も悪い。他人の優しささいったモノに対して懐疑的であるし、実際に世をすねて自暴自棄になっているようにも見える。だが、我々は彼の内に秘めた優しさをしっている…自分の生立ちをバネにしようともがいている姿を知っているのだ。

その最たる例が、物語の序盤、ドヤ街の子供達を自分のアジトに招待した際に語った壮大な計画である。その内容と言うのは

大人も子供も皆が遊べる遊園地を作る。
全国の名医を揃えた総合病院を建てる。
働けなくなった老人の為の養老院を建てる。
幼児の為の保育園を建てる。
環境を重視したアパートを建てる。
品揃え抜群のスーパーマーケットを建てる。
誰も職にあぶれたりしない様大きな工場を建てる。

という、その辺の役所の都市計画課も真っ青な構想である。そして重要なのは、ジョーはこの構想に基づき既に行動に移していたという点である。但し、それは詐欺行為や窃盗といった形だったが、ともあれジョー自身はこの計画をやり遂げる事を信じているのである。

そう、実は粗暴で手のつけられない悪ガキに見える矢吹丈という男は、その実誰よりも優しく、責任感の強い男だったのだ。そう捉えると、少年期の誰にでも食って掛かる激しい性格や、自己本位で粗暴な態度と言うものも、実は彼自身の優しさという弱さを隠す為の虚偽であったのではないだろうか。

しかし、彼は少年院での力石との出会いによって転機が訪れる。最初の決闘によるダブルKOによって、力石という存在に一種の友情のようなものが芽生える事となるのだ。但し、その友情のようなもの、というのはジョーからの一方的なものであり、当の力石はさほどジョーに重きを置いていない様にも見える。実際場所を少年院からシャバのリングに移しての対決の前も、力石自身は例え少年院の草拳闘だったとしても、ジョーと引き分けたという事が今後の自分の輝かしい経歴に汚点を残す事になる…それが許せない、と言う考え方なのだ。男同士の…とか、義理を果たす、といった事に対してはむしろジョーの方がウェットであり、力石はもっとドライに勝利と栄光を追い求めていたのだ。

そういった面で少々勝負に対して、拳闘に対して甘い部分があったジョーではあるが、力石との死闘と彼の死からはその印象がガラリと変わる。しかし、変わったと言ってもジョーは

「自分との戦いで死んでいった力石の為にもボクシングの頂点を目指す」

というモノではなく、ただひたすらに拳闘という世界の中でもがき苦しむ事を享受する、という形になってしまう。つまり、力石の死後勝負に対しドライになるどころかより一層ウェットな方向ヘ流れていくのだ。だからこそ、力石の死…即ち力石を自分の手で殺めてしまった、という強烈なトラウマを抱えながら、それを克服できぬままリングに無理やり復帰し、テンプルを…顔面をヒットする度に反吐を吐いていいたのだ。力石の死後、葉子に

「いま、この場ではっきりと自覚しなさい。ウルフ金串のためにも、力石くんのためにも、自分はリング上で死ぬべき人間なのだと!」

と言われているが、物語終盤の彼の行動は正にこの言葉通りなのだ。だからこそカーロスがパンチドランカーになった際も

「今度は、カーロスか…」

と愕然としながらも拳闘から離れ様とは思わなかったのだし、自分に好意を寄せてくれている事は重々承知しているにも関わらず、自分を追い詰めるような拳闘の世界から離れて幸せになっても良いのよ、という紀ちゃんの言葉すら拒絶したのだ。つまり、この頃から既にジョーはリングで死ぬ為に…劇中の言葉を借りればそう、「真っ白な灰だけになる」為だけに拳闘をやっていたのではないだろうか。「野性の殺し屋」「ケンカ屋」といった粗暴で激し過ぎる男、という印象をもたれているジョーではあるが、実はある意味で誰よりも責任感が強く、誰よりも義理堅かった…そうは考えられないだろうか。

最強の男、キングオブキングスのホセ・メンドーサとフルラウンド戦ったジョーは、白木葉子に自分のグローブを託し、真っ白に燃え尽きる…優しい微笑をたたえながら…。

彼は死んでしまったのだろうか。
少なくとも「あしたのジョー」という作品の枠で捉えればジョーは死んでいる。もうジョーの贖罪の物語は「リングで死ぬ」という形で完結しているからだ。しかしそれでも尚、ジョーは生きている、生きていてきっと今度は少年時代に思い描いたドヤ街の救済計画に乗り出すんだ、と信じたくなるのも、物語での彼の生き様があまりに苛烈で、あまりにも報われない形で幕を下ろしてしまっているからではないだろうか。つまりは、我々も林屋の紀ちゃんと同様ジョーに人並に幸せな人生を味あわせたかったなんじゃないだろうか。読者、視聴者という傍観者の立場からは、ジョーの生き様はあまりにもやるせなく映ってしまう…だからこそ我々読者(視聴者)は「あしたのジョー」から目が離せなかったのではないだろうか。

果たして、彼は幸せだったのだろうか。
いや、彼なりに幸せだったのだろう。そう思わなければあまりにも救いが無いじゃないか。

未見の人は是非一度「あしたのジョー」という作品にビデオでも、マンガでも良いので触れて見て欲しい。ジョーは泥臭い。決してヒーローではない。ジョーはジョーなのだ。だからこそ他のキャラクターには無い魅力が光って見えるのだ。「あしたのジョー」を読み終わった後、アナタは自分の心の中に何か熱いものが宿っていることに気が付くはずだ。

余談ではあるが、上記した尾藤イサオ氏が歌うテレビアニメ版の主題歌の「♪だけど〜ルルルル〜」のハミングの部分は本来ちゃんとした歌詞があっり、尾藤氏が試しに歌った際、周囲の反応に気をとられ思わずハミングしてしまった所、それが作曲家やプロデューサーに好評で採用されたというエピソードが知られているが、実は歌手歌手選定の際はこの部分の歌詞が決まっておらず、尾藤氏がアドリブでスキャットにしたところそれが採用された、というのがホントの所らしい。

おっと、余談ついでにアニメ版&劇場版についても書いておこう。この「あしたのジョー」という作品は少年院時代から力石を経て、カーロスの試合までを描いた「1」と、カーロスの試合(厳密にはジョーが泪橋に戻ってくる所)からホセとの死闘を描いた「2」と、二回に分けてアニメ化されている。と、いうのも、コレは「1」のアニメが途中で原作の連載に追いついてしまった為であるのだが、カーロス戦の後、ジョーがまたふらりと旅に出てしまう、という終わらせ方になっている。ちなみにコチラの最終回の方も評価が高いのが凄い所だろう。「2」の方はアニメ独自の展開等もあり、これまた見所が多い。「あしたのジョー」という作品がビッグネームである事も手伝って、「1」「2」共に衛星やケーブルチャンネルで頻繁に再放送される作品なので、機会があったら是非見て欲しい。ちなみに我がテレたまでも、「2」の方がかなりヘビーローテーションで再放送がかかるので油断できない。ともあれ、昨今の作品では先ずお目にかかれないドラマに胸を熱くさせられるのは間違いない。宮崎駿氏や富野由悠季氏に並ぶ”大御所”である出崎統氏の手腕が如何なく発揮されている。

劇場版「1」「2」の方は、「1」が少年院から力石との対決、そして死までを、「2」ではカーロスとの出会いとラストのホセ戦をメインに描いている。ただ、「2」の方は個人的ベストバウトだと思っている金竜飛戦が流されてしまっているのが残念か。劇場版はキャストがテレビ版とは大幅に変わってしまっているが、ジョー役のあおい輝彦氏、段平役の藤岡重慶氏はそのまま固定になっている。ちなみに2人とも「あしたのジョー」の後は主に俳優として活躍、あおい輝彦氏は「水戸黄門」の三代目”助さん”として知られる。藤岡重慶氏の方は、「西部警察part1」で谷刑事を演じたのが印象的だったが、1991年に脳内出血にて故人となってしまっている。謹んでご冥福を祈りたい。

で、このアニメ版「あしたのジョー」は主題歌が作品展開に実にマッチしている。「1」の方は、尾藤イサオ氏の例の

♪サンドぉ〜バッグにぃ〜浮〜かんで〜消ええるう〜憎いぃ〜アンチキショ〜ウのぉ〜かぁ〜おぉ〜めがぁ〜けぇ〜

という、特に少年院時代のジョーの心情を反映した主題歌となっているが、「2」の主題歌、「傷だらけの栄光」も、力石の死により相手の顔面を打てなくなってもなおボクシングにしがみつくジョーの餓え、渇きみたいなものを見事反映させており、

♪ぶち〜当た〜って〜砕〜ける〜波には〜や〜さ〜しさ〜な〜ど意味が無いのさ〜

と、ハードなものになっている。そして「2」の後半の主題歌「MIDNIGHT BLUES」は、ラスト…真っ白に燃え尽きたジョーを後から思い出しているような雰囲気にさせる歌となっており、最終回に向けての受け手の寂しさをより一層盛り上げてくる。一方、「2」の方のエンディングテーマ「果てしなき闇の彼方に」も、ジョーの生き様を見守る様な曲となっていて、特にコレが後半になって聞いてくる…そう、ボディブローの様に、だ。

勿論劇場版の方も負けてはいない。特筆すべきはやはり「1」主題歌「美しき狼たち」と「2」のエンディングテーマ「青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜」だろう。「美しい狼たち」は、少年院での草拳闘、ジョーと力石のダブルK.Oの後の、木陰で2人が並んで休むシーンにて2番が使われるのだが、コレが非常にマッチしており、ジョーと力石が認め合い、奇妙な友情さえ芽生える、という重要なシーンをより印象的なものにしてくれている。そして「2」の「青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜」は、ラストシーン…真っ白に燃え尽きたジョーの姿を背景に、この曲が流れ出すと、もう、涙が…というレベルの凄さ。テレビ版の「グッバイ・ジョー」が悪い訳では無いが、やはり劇場版のコチラの方がよりグッと来るものがある。

それぞれの曲を聞くと特定のシーンが勝手に頭の中で映像になる…例えば、

尾藤イサオの「1」主題歌を聞くと、力石にやられたジョーが独房で悔し涙を流しているシーンが…
「美しき狼たち」を聞くと、ダブルK.Oで気を失ったジョーと力石が木陰で横になっている姿が…
「ジョーの子守唄」を聞くと、リングサイドで怒声をあげる段平のおっちゃんの姿が…
「傷だらけの栄光」では顔面を打てないジョーがリングでもがき苦しむ様が…
「K.O」ではロードワークやシャドーボクシング、サンドバックを黙々と叩くジョーの姿が…
「果てしなき闇の彼方に」では、夕陽の海岸に1人佇むジョーの姿が…
「MIDNIGHT BLUES」は少年期から世界タイトル戦までに見せたジョーの様々な姿と、白木葉子が控室で流した涙が…
「グッバイ・ジョー」では、何時ものコートを羽織り、何時もの帽子を被ったジョーが旅立つ後姿が…
「青春の終章(ピリオド)〜JOE…FOREVER〜」では、世界戦の最後、まっ白に燃えつきたあの姿が…

といった具合に、だ。このリンク性は主題歌や挿入歌といった類のものの中では突出している出来であろう。
…と、蛇足的に主題歌の解説をしてみたが、コレでもし興味を持った方がおられたら、徳間ジャパンコミュニケーションズよりリリースされているCD「あしたのジョーソングファイル」を聞いてみて欲しい。上に挙げた曲は全て網羅されている他、ジャケットがラストシーンのジョー、という凝り様だ。劇場版「2」の主題歌「あしたのジョー2のテーマ〜明日への叫び〜」が入っていないのが個人的には非常に残念だったりもするのだが、原作漫画を読む際にコイツを流せばもう気分は…

…立て、立て、立つんだジョォォォォォォ〜ッ!!(声:藤岡重慶)

となる事間違いない。
さて、非常にまとまりの無いコラムになってしまったのは、それだけ「あしたのジョー」という作品が、私の中で、私なんぞが語る事がおこがましい、タブーなんじゃないかと思えるほどの絶対的な作品…言わば「聖書」とでも言うべき存在だから…という事で、どうぞ勘弁願いたい。ともあれ、今の若い世代にも是非触れて、読んで見て欲しい漫画界の至宝であると、私は思っている。

あ、ちなみにジョーのモデル…特に序盤で見せた両手ぶらりのノーガード戦法って、あの故・たこ八郎氏だって知ってました?


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