キャバクラアニメ

機動戦艦ナデシコ

1996年 XEBEC 全26話 テレビ東京系放送
声の出演:桑島法子、上田祐司、関智一、飛田展男、南央美、他

簡単解説
突如木星から飛来した謎の機械兵器、「木星トカゲ」。それによって壊滅させられた火星から、一人なぜか脱出してしまった少年テンカワ・アキト。そして彼は成り行き上、ネルガル重工の開発した機動戦艦ナデシコに乗り込んで戦うことになる。


この「ナデシコ」という作品はNHKアニメ「忍たま乱太郎」の演出を手掛けている佐藤竜雄氏が監督を務め、謎の社会現象まで引き起こした「新世紀エヴァンゲリオン」の直後にスタートした作品である。いや、「エヴァ」が深夜の再放送から火がついた事を考慮すれば、丁度大騒ぎが始まった頃と被る。その為か本作は何かと「エヴァ」と比較して語られることの多い作品である。

もっとも「ナデシコ」と「エヴァ」の2作品には共通項も多いのだ。例えばマンガが共に「少年エース」で連載されていたり、近年のロボットアニメでは珍しくテレビシリーズ終了後に劇場版が制作されたり、両作品のスポンサーを務めたセガがゲームソフトを発売したり、両作品のヒロイン達が同人誌等の触媒で人気を博し、未だにフィギュアの新作等が発表されたりと、特に作品自体の見せた展開が非常に似ているのだ。前記したように「エヴァブーム」の真っ只中に放映されていた点と、作品展開の類似性がこの2作品が比べ評される理由なのだろう。

で、私個人もこの「ナデシコ」の放映開始時は大きな期待を持っていたものである。特に既存の設定から大きく変化こそ無いものの、独自の解釈を封入した「グラビティブラスト」「ディストーションフィールド」「ボソンジャンプ」「超技術が埋もれた火星の遺跡」といったSF設定や、コクピットコアにフレームそのものを換装することで戦局を選ばない汎用性を持たせるというメカニカルなアイデアを盛り込んだ主役メカ「エステバリス」、そして初回で描かれたキャラクターの配置は「ああ、久々に楽しめるロボットアニメが始まったのかもしれない」なんて淡い期待をよせるに充分であった。

特に「戦争なんて恐い。だからボクを巻き込むな!!」というナヨナヨとした主人公に対する相棒の「ダイゴウジ・ガイ」ことヤマダジロウの配置は非常にユニークに感じた。この山田次郎という男、ヒーローに憧れる熱血オタク野郎で、ヒーローになる為にパイロットに志願し、挙句の果てに自分自身でヒーローっぽい名前を勝手に名乗るというなんとも面白いキャラクターだったのだ。この相対する、それでいて似た部分も持ち合わせている2人はこれからどのように変わっていくのだろう…等と楽しい想像を繰り返したものだ。

しかしそんな私の期待は呆気なく破られた。物語序盤でアキトの相棒になる筈(私の中では)のヤマダジロウは呆気なく戦死してしまうのである。そして物語自体もなんだか半端な感じで私の考える「ロボットアニメ」とは別ベクトルに突き進んでしまったのである。挙句の果てにナデシコクルーは戦闘そっちのけでハイテンションなバカ騒ぎを繰り返すだけ…。当時流行っていた言葉を借りれば、「ボクの気持ちを裏切ったな!!父さんと一緒で裏切ったんだ!!」と言った所か。

特筆すべきは作品の持つそのオタク臭である。情けない主人公と明るく天真爛漫(過ぎる)なヒロイン、そして回りを固める女性キャラクター…例えば「天真爛漫な幼馴染み」「ツンツン美少女」「セクシーお姉さん」「ボーイッシュな強気娘」「電波系の変な女」「メガネでオタクな娘」「おさげの清純派」等など…この配置、よくよく考えれば「18禁美少女ゲーム」や「美少女マンガ」等の人員配置パターンの典型である。そして、そのナヨナヨっとした態度の情けない主人公がナゼかモテモテ君というのも「18禁美少女ゲーム」や「美少女マンガ」等のストーリー進行の典型的パターンである。

つまり「ナデシコ」の作風は「ロボットアニメ」としてのソレではなく、日頃「Natural」だの「Piaキャロットへようこそ!」だの「ラブひな」だの「シスタープリンセス」だのといったシロモノにハマッてしまうような連中が憧れる「沢山のカワイイ女の子が自分を好きになってくれないかなぁ」等というハーレム妄想を擬似体験させるという何とも困ったものなのだ。私は比較的…というよりかなりそういったハーレム妄想系の「萌え」作品という奴が苦手なので、余計この部分については引っ掛かってしまった。

更に登場するキャラクターにはある種の強烈なオタク臭が漂っている。、アニメにハマッたりガレージキットを作ったり…挙句の果てに「木星トカゲ」の正体である木連の組織にしろ、「ゲキ・ガンガー3」なる劇中劇が聖典のような扱いを受けている組織であり、彼等が搭乗するロボットも、その「ゲキ・ガンガー」を模したデザインになっていたりするのだ。つまりこの作品、描かれるキャラクターが「オタク」なら見るのも「オタク」、挙句の果てに恐らくスタッフも「オタク」という、言ってみれば「オタク」のすべてをつめ込んでいると言っても過言ではないと言える。しかしその強烈過ぎるオタク臭によってこの作品を生理的に受け入れられない人が多くいるのも事実である。そういう意味ではこの「ナデシコ」はダメな人と好きな人、それが両極端に分かれてしまう作品の典型と言えるのかもしれない。

そして注目すべきは劇中劇「ゲキ・ガンガー3」の存在である。これは言わば「クレヨンしんちゃん」における「アクション仮面」のようなモノと考えてもらえばいいのだが、この「ゲキ・ガンガー」にはクライマックスに向けての伏線が貼られていたりする。未知の敵であった「木星トカゲ」が実は人間だったということが発覚した後、突然ナデシコクルーのハルカと木星の指揮官九十九が恋に落ちる。ナデシコクルー達はその恋が木星人との和平に繋がると考え、共通の趣味である「ゲキ・ガンガー」をネタにしたパーティを開く。しかし肝心の九十九は地球との和平を良しとしない木星上層部によって殺されてしまうのだ。

そしてここでアキトは初めて「ゲキ・ガンガー」の最終回を目にすることとなる。アキトはこの最終回の感想を「敵だという理由だけで分かり合えたかもしれない人々を何の躊躇もなく殺していく最低の最終回」と評し、自らの立場と重ね合わせ嘆く…。こうして文章にするとえらいハードな路線を狙っているようにも思えるし、劇中劇を利用して「勧善懲悪」を否定するという手法は「機動戦士ガンダム第08MS小隊」の小説版に登場する劇中劇「キャプテンジョー」と同様それなりに凝った展開ではある。

しかし、思えばこの演出、受け取り方によっては皮肉めいたものを感じてしまう。あれだけ丁寧にポジションを構築し、重要なファクターとしていた「ゲキ・ガンガー」が、この回のこの演出だけで「あんなのはクソ」とでも言わんばかりの低いポジションまで貶められてしまったのだ。逆に言えばそれは丁寧に伏線が構築されていたという証拠でもあるのだが、この嫌味たっぷりの展開は何とも後味が悪い。

そもそも、本作中の「熱血」という言葉の使い方にしても何分釈然としないものが感じられて仕方がない。上で「面白いキャラクター」として挙げているヤマダジロウにしても、アニメでのヒーロー像に憧れ、現実と混同してしまっている、という部分が彼の魅力になっていると同時に、アニメごときにズッポリとハマッているせいで、現実世界での行動がもはや自己満足になってしまっている姿は頭が悪いというか、みっともなさを感じてしまう部分がある訳で、更に、やはり上記した木連の設定…その国家自体が「ゲキ・ガンガー3」というロボットアニメの影響下にあるという設定というか、演出にしても、現実に存在したら滑稽…いや、笑いでは済まされないレベルのどうしょうも無さが根底に存在している。

もちろん、空想世界での常識であったりネタを、現実世界に投影してそれを「リアルじゃない」等と非難するのはナンセンスだが、この「ナデシコ」におけるヤマダジロウ、木連、そして「ゲキ・ガンガー3」については、ある種送り手の別の思惑を感じてしまう。もしかしたら、佐藤監督は所謂「ロボットアニメ」という存在が大嫌いで大嫌いで仕方がないのではないだろうか。もしそうだとしたら、ヤマダジロウにせよ木連にせよ、そして「ゲキ・ガンガー3」にせよ、これらは「ロボットアニメ」というジャンルそのものに対する嫌味であり、下手な受け取り方をすれば、今までのロボットアニメの全ての否定なのではないだろうか?

思えば、アカツキがアキトに対して言った

「君はもっと色々なアニメを見るべきだ。」

等というセリフは、実はアカツキがアキトに言ったセリフではなく、佐藤監督がロボットアニメとして「ナデシコ」を見ていた視聴者に対して言ったセリフなのではないだろうか。だからこそ、私の様なロボットアニメが大好きな視聴者にはこの「ナデシコ」という存在が非常に疎ましく、嫌みったらしく見えてしまうのではないだろうか。ファンの中に、「ナデシコ」はダメだけど「ゲキ・ガンガー」は良いと思う、的な発言をするファンが少なからずいるのも、実はこの証明なのではないだろうか。

しかし、上の方で述べた「オタクハーレムの擬似体験的なキャラクター配置」もそうであるのだが、こういったアンチ的な部分で魅力を打ち出したところで、結局それは作品のフトコロを狭く、作品が視聴者を選ぶ形になってしまうだけな気がする。いや、この「ナデシコ」という作品自体、作り方にオタクに依存している部分がある。「エヴァ」もそうであったのだが、自らオタクを依り代としている作品が説得力のある「オタクへの警告」なんざ発せられるハズもなく、結局逆にオタク共を喜ばせるだけに終わるのがオチだろう。

そして最終回、ここで「ナデシコ」は「エヴァンゲリオン」と丸っきり同じ展開を見せる。いや、同じと言ってもアキトがパイプ椅子に座ってルリに「なぜ殺したの?」なんて問い詰められる訳でも、最後は皆でアキトを囲み、「おめでとう」なんて事をやった訳ではない。それでは何処が同じなのか?

それは、物語を引っ張ってきた重要なファクターであり、木星と地球の戦争の元凶と設定されていた「オーバーテクノロジーが埋まる火星の遺跡」について何の説明も、フォローもしないまま物語を終わらせてしまった。コレが「エヴァンゲリオン」の最終回、何の説明も成されないままに終わり、なんだかよく分からないうちに作品の方が終わってしまった「人類補完計画」と丸っきり同じなのである。しかし、物語の重要なファクターであり、設定において一つの屋台骨として機能していたモノについて何ら説明もしないとうのは、クリエイターとしての手抜きである。

いや、聞く所によると、脚本段階では「遺跡の謎」についてアキトの過去経由ボソンジャンプの際に明確にされる筈だったらしいのだが、佐藤竜雄監督が謎に関する説明を封印してしまったのだという。以降は佐藤氏のアニメ誌のインタビューでも「謎のままの謎があっても良い筈だ」等とぼかして語られているだけだ。確かに「謎」について答えをもボカす、というの作劇方法にも成功例はあるし、このおかげでファンの「想像の余地」が広がるケースもある。しかし本作の場合、コレそのものがこの物語の発端であり、世界観を構築するに当たって重要度が極めて高いと思われる「火星の遺跡」について謎を封印する必要が果たしてあったのだろうか?

物語を展開するにおいて、実体の見えない謎が存在するというのは良くあるパターンであるし、その謎解きを物語に絡め、視聴者をちょっとした欲求不満に落し入れ、次回へ次回へと引っ張る手法もある。しかし、それが最後まで謎のままというのはどうなのだろう?

物語をドラマチックに構成する為に敢えて謎を設け、視聴者に謎が中々解き明かされないという負荷を与えることは効果的な演出であるし、古今東西ドラマ作りには良く使われる手法である。しかしその負荷は、それが物語の屋台骨とでも言えるような大きなものであればある程、最後に明確な解答を打ち出し、ちゃんと完結させることで初めて「演出」たりえるのではなかろうか。それが本筋、本来のテーマではない、等という説明をするなら、一体この「火星の遺跡」を巡るSF的な部分に注目して「ナデシコ」を追い続けた人の立場はどうなってしまうのだろう。

私自身、正直SFという言葉には小難しさしか感じない類の人間であり、当然高千穂遥氏辺りが言いそうなSFファンとしてのセンスなど持ち合わせてはいない。しかし、少なからずこの火星にの遺跡を巡る謎については「結局何なんだろうなぁ…」という程度ではあるが注目していた部分なのだ。それは劇中での「火星の遺跡」に対する扱いの重要度とは関係なく、視聴者として木星と地球の戦争の理由…言わば「とどのつまり」であるこの遺跡に関して、結局は何なのだろう?という思いを抱いていたのだ。コレは「ガンダム」を見ての「ニュータイプって結局何なのよ?」という疑問や、原作版「ゲッターロボ」を読んでの「結局ゲッター線は竜馬達に何をさせたかったんだ?」という謎と同じようなイメージである。そういう意味で、非常に受け手側の主観的観点から端を発している疑問ではあるものの、何のリアクションもないまま終わってしまった「火星の遺跡」に対して、私の場合再び「ナデシコ」という作品に裏切られた、という印象を受けてしまったのである。

この作品、確かに色々な要素をゴッタ煮的に取り入れ、それが魅力の一端となっているのは誰しもが認める部分であると思う。でなければ世間でここまで高い評価等得られなかったであろう。
しかしそのゴッタ煮が裏目に出てか、全てが中途半端に終わってしまっている感は否めない。

ロボットアニメにしては、ロボットアニメに対する嫌みとも取れる演出が多い。
SFアニメにしては、その設定の根本に対する説明が成されていない。
戦争アニメにしては、コメディ色を全面に出し過ぎている印象を受ける。
美少女路線とアニパロの複合技とすると、シリアスでマジメぶった部分が鼻につく…。

何をメインで描くか、これがスタッフの中で何一つ明確になっていなかったのではないだろうか。もちろんこの印象は、「ナデシコ」に見られるロボットアニメに対する嫌味とも取れる描写…そういったアンチ主義的な腐臭に対してそう感じるものだとは思う。しかし、私にとって結局「ナデシコ」に付き合って残ったのは自分をなんだか小馬鹿にされたような不快感だけなのだ。そもそも「ナデシコ」という作品は、その多様性故に一言で説明することが難しい訳だが、その「一言で表現し難い」というのは、裏を返せば1本スジが通っていない中途半端さが原因に思えてならない。

思えばこの「ナデシコ」、キャバクラやホストクラブのような印象を受ける。何に対しても徹底していない為、スッカラカンで中途半端、見た目の華やかさの裏にはドギツイ嫌味が隠されている…。その印象が、日夜キャバクラやホストクラブにて繰り広げられる擬似恋愛に対する印象に酷似しているのだ。

誰に対しても良い顔をする割に、よくよく考えてみれば実は誰もを小馬鹿にしている。そんなキャバクラのホステスのようなアニメだからこそ、私はこの「ナデシコ」を他人にオススメすることなんざ死んでも出来ないのだ。

この「ナデシコ」のスタッフは、「ヤマト」や「ガンダム」を原体験として持つクリエイター達だ。「アニメは子供だけの文化じゃない!!」というエポックを打ち出した作品の影響下にあるクリエイター達が、今度は逆に見た目で誤魔化してはいるが、結局テーマとかを主張する以前に、ニヒルというか、アンチ主義的な匂いばかり漂う作品を作り出してしまったのはある意味皮肉かもしれない。「ヤマト」や「ガンダム」から時を経て、「子供だけの文化」では無くなったアニメは、結局は社会に対しコンプレックスを持つ「オタクと呼ばれるダメ人間の文化」になってしまったのだ。これから現われるであろう「ナデシコ」や「エヴァ」を原体験としたクリエイターがどんな作品を作るのか、それを考えると私はとても恐ろしくなってしまう。

…まぁ、「ナデシコ」はもちろん「ヤマト」や「ガンダム」の子供であるのだが、それ以上にそのフォーマット的な内情は「無敵王トライゼノン」とか「スレイヤーズ」の友達、という気がしないでもないのだが。


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