自由にやれる気楽さ

オーバーマン・キングゲイナー

2003年 WOWOW放映 サンライズ制作 全26話
声の出演:野島裕史、かわのをとや、小林愛、林真理花、他

簡単解説
ドームポリス・ウルグスクに住むゲーム好きの少年・ゲイナーはエクソダス主義者としてシベリア鉄道警備隊に逮捕されてしまう。その牢屋で出会った男・ゲインに協力し牢屋を脱走したゲイナーは、ウルグスクのメダイユ公爵家でオーバーマンを強奪し、「キングゲイナー」と名付ける。その時、都市ユニットごと丸々旅をするヤーパンのエクソダスが始る。ゲインはこのエクソダスの請負人だったのだ。騒ぎのドサクサに巻き込まれたゲイナーは、自分の意思とは裏腹に、このエクソダスに協力するハメになる。


ここ最近また富野氏が精力的で元気な印象を受ける。「∀」以降、各所で公演会を開いたり、しばしばテレビにまで出演している。語っている事自体は以前と大して変わってはいない様だが、「V」の頃の氏の発言のような捨て鉢な印象は無く、「ブレンパワード」に続いて衛星放送枠にて放映された本作「キングゲイナー」をはじめ、あれほど忌み嫌っていた「Z」を劇場版として再編集したり、ブロードバンド放映というスタイルで氏のライフワークとでも言うべきバイストンウェルを題材とした「リーンの翼」を開始したり…一時、ノイローゼか躁鬱か?と言いたくなっるような発言を繰り返していた少し前とは異なり、むしろ自らが楽しんでアニメーション制作に携っているような印象を受けるのだ。

思えば、「∀」以前の非ガンダム作品「ブレンパワード」でも色々な新しい要素を打ち出したにも関わらず、根本でやってる事や言っている事…つまりは作品に投じた氏の主張自体は「ガンダム」でやっている事と大差が無かった。しかし、「∀」後の作品であるこの「キングゲイナー」は「ブレンパワード」とは異なりなんというか…吹っ切れた前向きな印象を強く感じるのだ。

コレは直接は「キングゲイナー」の評とは無関係なのだが、やはり「ガンダムなんて只のオモチャの宣伝だ」という発言を繰り返し、特に半ば強引な形で作らされた「Z」以降の作品に対し強い不満というか、不信感を抱いていたと思われる富野氏も結局は自らが世に出した「機動戦士ガンダム」という作品に束縛されていたのではないだろうか?

まぁ、「劇場版Z」の存在がこの意見に対し影を落している気が自分でもしなくはないが、この「劇場版Z」にしたって明らかに未だ作られ続ける「ガンダム」への対抗意識がミエミエ(舞台挨拶でもそんな旨のコメントをしていたそうな)だった訳で、そういう意味では作品自体を見ていないので作品そのものにはクチを出す訳にはいかないのだが、「悪い意味での」富野氏”らしさ”が出過ぎている、というのは何も私だけが思うところではあるまい。ただそれでも何かしら思う所があると登場人物の殆どを抹殺して物語を締める「皆殺し」を連発していた頃の富野氏とはやや違う印象はある。まぁ、逆に本作や「∀」、「ブレンパワード」の様なポジティブ路線を「明る過ぎる」「軽い」と」一部の旧富野シンパから批判を受たりもしているのだが。

いや、その実やっていること自体は「キングゲイナー」も今までの富野作品から大きく逸脱している訳ではない。ドームポリスというアイデアは「ザブングル」で既に出ていたし、描き方は違えどゲイナーがキングゲイナーに初めて乗る経緯なんか、よくよく考えればモロに富野氏の忌み嫌う「Zガンダム」である。作劇にしても、今までの戦艦というキーワードが都市丸ごとになっただけであるし、管理社会からの解放という意味合いも、「ザブングル」や「エルガイム」で既にあった。そういう意味からすれば、この「キングゲイナー」には新しい要素というのは案外少なく、むしろ保守的と言えるのかも知れない。

しかし、そんな保守的とも言える作風のこの「キングゲイナー」は今までの富野作品の枠から出ないため面白くないのか?と言われればそれは逆で、非常に面白い作品なのだ。そしてその面白さの裏には、やはり吹っ切れた富野氏の存在がある気がする。確かに一部で指摘されている通り、本作…特に序盤での説明の放り投げっぷりには世界観に素直に入り込む事を難しくしているし、「エヴァ」辺りとは別の意味で説明の無い劇中用語が多過ぎたりもする。文芸としてもドタバタし過ぎていて1話毎のノリばかり優先している部分も感じ取れる。

ただ、ネクラにならず、それでいて絶叫熱血系にもならなかった本作は、胸の奥を熱くさせられたり深く考えさせられたりこそしないものの、見終えた後に何となく元気になっているような気にさせられる…とにもかくにも前向きに吹っ切れさせてくれる…そんな作品なのだ。まぁ、そんな事を言いつつも「キングゲイナー」も視聴率的には成功とは言い難く、若い連中は後に富野氏がケンカを売る事になる「ガンダム種」の方に注目していた、というのは皮肉なのだが…コレは成功した作品が必ずしも良作ではない、この逆もまた真なり、という事の良い例だろうか。

そもそも日本のアニメは権力はスポンサー、評価は監督やプロデューサーに集中してしまう傾向がある。アニメ制作の第一線に「若手」が存在しない事や、作品の評価そのものの捉え方も監督やら構成作家に依存したもの…要するに特定のクリエイターのファンが作品の良し悪しを度外視して「○○作品だから素晴らしい」とワケの分からん評価を下してしまう傾向を生んでいるのだろう。だから完結している作品の「続編が見たい」なんて言い出す訳だし、クリエイター側もそういった続編、さもなくば人気漫画を原作に、というネタにばかり頼る、という今の現状がある訳だ。

しかしそんな中、この「キングゲイナー」という作品は本当の意味での「次」を見据えたスタイルを取っていたのではないだろうか?この「次」は作風を続編が作れる様に、とかそういう事ではなく、次はもっと面白いものを、という点での「次」である。本作では富野氏はストーリーラインに大きく口出しはしていないらしく、若手脚本家達のバラバラなスジを、長年の経験で培ったセンスで物語としての帳尻合わせをする事に徹したのだという。つまり監督として独裁政権は取らず、1人1人のセンスを重要視してそれをまとめたのだ。だからなのかは分からないのだが、本作「キングゲイナー」では、珍しく富野氏が自分と共に携ったクリエイター達を称えており、自分と共にこの「キングゲイナー」に携ったスタッフ達に、

「自分達がものを作る舞台の第1歩に乗ったという事を理解して、『烏合の衆』から脱却してくれたらいいな、と願っています。」

等と語っている。この言葉はこの「キングゲイナー」という作品が言って見れば「富野由悠季のガチンコ・アニメ道」的な意味合いがあったのではないだろうか。そして自分自身も「次に何をやるべきかも必然的に見えてきた」と語っており、自らもまだ前に進む決意を持っている。こういう部分こそが、「キングゲイナー」に対して感じる「吹っ切れた前向きな印象」に繋がっているのではないかと思うのだ。まぁ、この言葉の直後にやったのが「劇場版Z」というのは阿藤快氏ではないが、何だかなぁ…なのだが。(苦笑)

今後、ロボットアニメに限らず非オタクをも唸らせるような面白いアニメは少し前に大ブームとなった「新世紀エヴァンゲリオン」からではなく、この「オーバーマン キングゲイナー」のような作品から生まれて来るような気が私はする…というより、そうであって欲しいと思う。監督の趣味に走った作品を摸倣して作られた作品ならば、自分自身のえげつない思想やら趣味を剥き出しにしたグロテスクなものしか生まれない。そんなものが再び一大ムーブメントを巻き起こそうものなら、アニメーションなんてものは完全に地下に潜ってしまうのではないだろうか?だからこそ私は「次」を見据えた作品から、素晴らしい「次」が生まれて来る事を期待したい…いや、させて欲しい。

さて、本題に入って「キングゲイナー」の面白い部分に触れていこう。
このキングゲイナーの世界観ではウォーカーマシンじみた汎用ロボット「シルエットマシン」と、人工筋肉で固さを感じない「オーバーマン」という2種類のカテゴリーが存在する。シルエットマシンは正にピープル達の生活道具であり、戦闘はもちろん作業用などにも用いられる「キングゲイナー」の世界には何処にでもある存在のメカニックであり、それに対するオーバーマンはかなり特殊な存在で、各オーバーマンが一人一芸…「オーバースキル」という超能力を持っている。両者はデザインライン上でも明確な違いが演出されており、特にオーバーマン同士の戦いはその「超能力」の存在も相俟ってさながら怪獣映画やらヒーロー映画を思わせる。

そしてそんな面白いアクションシーンすら食ってしまうのが各キャラクター同士の絡みである。
この「キングゲイナー」では各々がそれぞれ非常に「らしい」行動をする。他の作品でありがちな「アレ?コイツってこういうキャラだっけ?」という違和感をあまり感じないのだ。これは作劇において各キャラクターの役割分担がキチッと計算されているからだろう。とにかくムダなキャラクターが存在せず、だからこそムダな人死にも少ないのだ。そしてエクソダス一行の各人が見せる「絆」は印象的で、特に「奮戦!アデット隊」のゲイナーとアデットの擬似家族的な絆や、甘酸っぱい青春と片付けるにはあまりに恥ずかしいゲイナーの告白、ゲイナー、サラ、シンシアの見せる何とも奇妙な友情、リュホフとママドゥンの愛(笑)といったネタから、敵側のシベ鉄3バカトリオとアデット姐さんのやりとり等も非常にコミカルでユーモラスだった。

もっとも私個人はゲインとアスハムの絡み…特に後半になって何かに取りつかれたような狂いっぷりを見せるアスハムがなんだか良く分からなかったのだが、それすらも彼等2人の確執の原因、アスハムの妹の登場と、彼女が兄に対して言い放った冷たい一言で納得出来てしまうのはスゴイ。

思えばこの「キングゲイナー」は、2クール枠にしては結構な情報量を持っている作品ではある。しかも劇中用語がキッチリと作品内で説明、消化された作品でもなかったのだが、それでいて決して分かり難い作風にはならなかった。そういった1歩間違えれば難解…というより理解不能に陥りかねない世界観を、最後こそ駆け足になったもののキチッと描ききれたのはやっぱり物語を根底で支え続けた各キャラクターの魅力だと思う。

さて、この「キングゲイナー」と同様にキャラクターの軽妙なやり取りが魅力であった作品に「戦闘メカ ザブングル」がある。この両作品は意外と似ている演出や設定がある。勿論それは「同じ富野作品だから作風が似るのは当たり前」「惑星ゾラは未来の地球の姿なのだから世界観が似るのは当たり前」等とデータだけでモノを語る様なレベルの話ではなく、物語のかもち出す雰囲気やキャラクターの配置…それはホーラとゲラバに対するケジナンとエンゲであったり、ドームポリスや管理社会に対する反逆といった設定やテーマにも至るのだが、こんな妄想をしてみたんだがどうだろう?

実はジロン達シビリアンのイノセントに対する革命が、「キングゲイナー」で語られるゲインの過去…つまりはウッブスのエクソダス。ウッブスは砂漠の南国の様だし惑星ゾラの世界観にも似ている気がする。(キッズ・ムントとカシム・キングもビジュアル的にそっくりだし)…と、するとコレは実は「ザブングル」でジロン達の革命が失敗に終わったというパラレルワールドの続編が「キングゲイナー」で、かつてゲインの相棒だったエリアルは実はジロンだ…とか。

まぁ、コレはコジツケに過ぎないし、両作品は基本的に無関係なのだが、こういう妄想こそがアニメ鑑賞の醍醐味なんじゃないかなぁ〜と、ね。


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