公に認知された同人ガンダム

ガンダムセンチネル

1989年 プラモデル誌オリジナル企画
大日本絵画社から小説「アリスの懺悔」が出ていますが、私は今回「モデルグラフィックススペシャルエディション」のフォトストーリー版をベースに語らせて頂きます。

簡単解説
UC0087年、グリプス戦役で敗走したティターンズに替わり、エウーゴが地球連邦に取り込まれる形となった。地球連邦軍内で、ティターンズに並び称されるエリート集団である教導団が「ニューディサイズ」を名乗り小惑星ペズンを制圧し、エウーゴを取り込んだ連邦軍に徹底交戦を唱えた。それに対処すべく連邦軍はα任務部隊を組織する。


本作「ガンダムセンチネル」は数多くのガンダムシリーズでも一際異端である。いや、その異端は物語や設定においてのものではない。その出生こそが本作の異端たる所以なのだ。

時代背景としては劇場版「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」の前後、「Z」「ZZ」の賛否両論の決着がついた頃である。この作品、いや正確には企画と呼ぶべきだろうが、当初は模型誌「モデルグラフィックス」から派生した一企画に過ぎなかったのである。しかしその存在感溢れるメカニック群が本家本元のガンダムの黒幕であるバンダイが目をつけ、登場するオリジナルMSをキット化(と、言っても当時バンダイからキット化されたのは主役機「Sガンダム」以外はどれも「Z」「ZZ」のリファイン的な位置付けのものであったが)したのだ。その後色々あって、いわゆる「宇宙世紀正史」に認められたようだ。もっとも、この辺の「正史、非正史」という基準は私には何がなんだかさっぱり理解出来ないシロモノなので詳しくは知らないのだが…。

この「センチネル」、一応模型誌というそれなりにメジャーで認知もされている媒体をベースとして作られているのであるが、当時はまだ若手であったあさのまさひこ氏、かときはじめ氏(当時は平仮名表記)、そして元々はモデラーチーム「ストリームベース」の一員である高橋昌也氏等が創造した言わば「同人誌」的な意味合いが強い。先に述べたとおり、サンライズやバンダイに言わせれば本来外様…今でこそプラモデル等の関連商品が他のシリーズと同列で販売されてはいるが、「センチネル」の企画が連載された頃のサンライズ&バンダイの本命は飽くまでも劇場公開間際だった「逆襲のシャア」であり、それを裏付ける様にプラモデルのリリースも「センチネル」を一時中断して「逆襲のシャア」のシリーズが発売されているのだし。

しかし、そんな企画がファンの人気もありオフィシャルに取り込まれたことはやはり特筆に価する。「機動戦士ガンダム」を原作者の富野由悠季氏以外が描き、違った側面、違ったドラマを見せるこの「センチネル」のやり方が後の「0080」に始まるOVAや宇宙世紀とは別の世界を構築したアナザーガンダムを生むバックボーンになったのは想像に難くない。そういった意味ではこの「センチネル」という企画は、ガンダム作品群の新たな流れを作ったと言っても過言ではないだろう。

しかし、この企画のストーリー展開は別段斬新という訳でもない。各メディア、もちろんロボットアニメにおいても既にモチーフベースとして用いられている幕末を宇宙世紀に当てはめていったものなのでそれは仕方が無い所であろう。そんな平凡なストーリーを引っ張ったのは非常に細部にまで突っ込んだSF設定と、「模型誌」という媒体を最大限に利用してファンに売り込んだメカニカル設定であろう。「ファーストガンダム」終了後、ガンプラが売れなくなることを恐れたバンダイが打ち出した「MSV」という展開で行われたMSに現用兵器的なデコレーションを施すという手法を更に徹底したその魅力的なメカニックは、当時世に溢れていたキャラクターモデルで目覚めたメカニックフェチ達に大絶賛を受けた。

更に、物語自体が「模型誌」という限られたメディアだけの展開だったこともあり、特にモデラー層にとって、「センチネル」という企画そのものがアニメファンの知らない「ガンダム」となり、そういったメカフェチの「他の奴等は知らないだろうが俺は知ってるもんね!!」という優越感を与えたのも人気を支えた原因であろう。そういう訳で当時の熱気を知る者は未だ根強く支持し続けている。もっともそういった支持がやや変質的になり、かなり設定部分に固執した非常にウザッたい狂信者も発生してしまっているのだが…。

しかし、私自身としてはこの「ガンダムセンチネル」という企画に高い点数を上げることは出来ない。私も前記したようなキャラクターモデルから目覚めたメカフェチだと自認しているし、当時のどのガンダムとも違ったセンチネルのMSは非常に魅力的に映ったのは事実である。そういった魅力的な要素も理解しているが、どうしても大絶賛する訳には行かないのである。

それは本作に見られる「THE BATTLE OF REAL GUNDAM」という言葉だ。この「リアル」という言葉は私にはどうしても引っ掛かってしまう。確かに「ガンダムセンチネル」はアニメという枠とは少し外れた位置付けにある。しかしそれでも元々は「ガンダム」というアニメーションそのものをネタとして用いているのだから、その関係は切っても切れないものである。それなのに「リアル」とはどういう事なのだろうか?

確かに本作の徹底したSF設定には目を見張るものがある。しかしSFとは「サイエンスフィクション」の略、あくまで虚像なのだ。それを大見得切って「リアル」等とは絶対に言ってはいけない。どうしてもそういったニュアンスを用いたければ「リアリティ」という言葉を用いるべきだったのだ。この僅かなマチガイこそが、私の「センチネル」を誉められない理由の根源なのである。それで無くとも私は「ガンダムは他のロボットアニメにはないリアルな戦争がある」なんて評価を全然信用出来ない人間なのだから、こんな僅かなマチガイでも見逃す訳にはいかない。この辺のクリエイター達の履き違いとそれを真に受けて屈折したファンのエゴが、ガンダムの生みの親である富野氏にして「∀ガンダム」という否定的結末を生む土壌になっているのだ。

本当に「リアル」なガンダムが作りたかったら、立ち上がることも出来ないガンダムの周囲で開発した技師が右往左往している横を戦車が砲撃しながら走り抜けていく…こんな企画にすべきだ。この履き違いが「ガンダムはリアル」、更に「リアルでないガンダムはガンダムとして認めない」等というワケの分からないファンの暴走を生んでいるのは言うまでも無い。本来アニメーションやそれに類するこの手の企画に求められるのはホントっぽさ、つまりは「リアリティ」である。決して「リアル=現実」では無い。

もっとも、「センチネル」が標榜とした「THE BATTLE OF REAL GUNDAM」というのは、”リアルなガンダム”という額面通りの意味ではなく、”「センチネル」こそが本当のガンダム”という様な意味なんだそうだ。しかしだったらそれはそれで問題はある。上で述べたウザッたい狂信者というのも「センチネル」の手法こそ絶対、と思い込んでいる連中でもある訳だが、考えてみて欲しい。「センチネル」という企画は「機動戦士ガンダム」から始まったアニメシリーズの世界観を用いた同人的な企画である筈だ。それなのに「本家よりリアル」とか「本家よりコッチが正しい」なんて言うのはどういう了見だろうか?それはちょっとおこがまし過ぎやしないだろうか。

確かに、後年「0083」辺りでも出てくるAMBAC機動だの何だのというのはこの「センチネル」から出てきたモノであるし、そういったSF的な設定、解釈が優れていた事は認める。だが、本来世界観を流用した作品であるなれば、その世界観のリアルに準じるべきだろう。それをコッチが本命だ、というのは傲慢過ぎやしないだろうか。例えるなら、「ときメモ」のキャラクターと舞台設定はそのままに、触手を操るバケモノを登場させて一昔前のアダルトOVAみたいにしちゃった同人ゲームがいけしゃあしゃあと「コッチが本当の『ときメモ』だ」なんて言っているのと同じだ。つまり、「センチネル」という企画は二重の意味でリアルという言葉に対し誤解…いや、勘違いしているのだ。いやはや、なんとも傲慢な企画ではないか。どちらが本当かなんて、本来受け止めた側が決めるものだ。この勘違いが、昨今の「オフィシャル」かどうかに固執するファンを生んだのではなかろうか。

更に、この「センチネル」にはニュータイプの否定というものも賢著である。もっとも、このニュータイプという言葉自体「ファーストガンダム」から賛否両論を生んでいたシロモノ(劇場版「めぐりあい宇宙」で、いきなり今まではさして重要なファクターでなかったニュータイプが突如表に出る監督のテコ入れに対するファンの論争は公開直後から取り沙汰されていた)なので今更…という感じもしないでもない。

かくいう私自身も「ニュータイプ」という設定は単なる民間人であるアムロがガンダムを1番上手く使える理由という意識しかなく、「人の革新」なんて描かなくてもガンダムはガンダムでいられると思っているし、カミーユやジュドーが覚醒した際に見せる「無敵モード」などやりすぎとも思ってしまっている位なのだから、「ニュータイプ」の概念や設定に大して思い入れを持ってはいない。だが、この「センチネル」でもニュータイプ的な位置付けで「ALICE」なるシステムが描かれているのだから、これは単なる描き方の違いに過ぎない…それは即ち「センチネル」自身が「ALICE」なる逃げの設定を持っている限り、「センチネル」が排他的にニュータイプ設定を否定する必然性が無い、という事にも繋がる。それどころか「センチネル」の手法そのものが、コレでは受け取り方によっては単なるエゴイズムにも取れてしまう。そういったムダな労力を他の部分、例えば「新撰組」という使い古された新鮮味の少ないモチーフに如何に新鮮さを付加するか、に使った方がよほど建設的だったのではないか。

総評になるが、この「ガンダムセンチネル」に対し私は飽くまで「1ファンが企画した同人誌がたまたまメジャーに認められた」という感じを受けてならない。その「ガンダム作品」の幅を広げた功績は大きいのは理解しているが、その企画の傲慢ぶりはハッキリ言って食えたモンじゃない。そんな企画の傲慢さと、それに釣られて調子に乗った連中こそが、ある意味で今尚続く、新作が出る度に「認める、認めない」という不毛な論争をやらかす面倒な「今の『ガンダム』」に繋がっている気がするのだ。

たかがSF、もっと気楽に楽しめば良いと思うのだが…。


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