ザクもジオンも出て来ないガンダム

機動戦士ガンダムF91

1991年 劇場公開作品 サンライズ制作
声の出演:辻谷耕史、冬馬由美、草尾毅、梁田清之、前田昌明、他

簡単解説
宇宙世紀0123年、新興コロニー群のフロンティアサイドに突如謎のMS部隊が乱入し、コロニーを占拠、「クロスボーンバンガード」を名乗り、「コスモ貴族主義」を掲げて占領したフロンティアWを新国家コスモバビロニアの首都とする。サイドに住む少年シーブックも、ガールフレンドのセシリーを拉致され、いやがおうなしに戦乱に巻き込まれていく。


本作「機動戦士ガンダムF91」は、「武者頑駄無」や「騎士ガンダム」といったSD路線全盛期に製作された。同時期、といっても少し前にガンダムシリーズ初のOVA作品「0080」がリリースされ、そこそこの好評を受けて本作の公開となる。そして、大河原邦雄氏、安彦良和氏といったファーストガンダムのスタッフが再び集結した作品ということもあり、それなりに各メディアでも話題になった作品である。

しかし、いざ公開されると本作は製作者サイドが期待した程の人気を得ることは出来なかった。その為かどうかは知らないが、当初はこの劇場版をプロローグとしてテレビシリーズ化する展開が予定されていた様だが残念ながらこの話は立ち消えとなり、唯一続編として「機動戦士クロスボーンガンダム」という作品がマンガとしてリリースされたのみに終わっている。

では、「本作」のどこがファンに受け入れられなかったのだろうか?
OVAの「0080」がいわゆるファーストガンダムの外伝という世界観を持っているのに対し、本作「F91」は先代の劇場版ガンダム「逆襲のシャア」から30年後を舞台として描かれており、今までのシリーズとは少し趣向を変えた展開を見せる。

まず、今までのシリーズを引っ張り続けたといっても過言ではない設定、「ザビ家」や「ジオン」というものが全く登場しない。当然、アムロやシャア、シリーズを通してほぼレギュラーとして活躍していたブライトも登場しない。前シリーズとの接点は、スペースアーク等の連邦軍戦艦がラー・カイラムの同系艦であったり、「シャアの反乱」では主力として活躍したジェガンが旧式機として登場するくらいである。

更に、シリーズでの敵モビルスーツのお約束であったモノアイも本作の敵「クロスボーンバンガード」の機体には見られず、代わりに丸メガネのようなカメラを持つ「デナン・ゾン」といった機体が活躍する。更にファンネルといったニュータイプのみが使用出来る無線で遠隔操作可能な兵器は登場せず、替わりに対人、対モビルスーツ両用の殺戮兵器「バグ」が登場し、陰惨な殺戮シーンを見せつける。

そういえば、モビルスーツ自体も今までの20m級という概念を崩し、何故か本作以降は15m級が主体となった。こちらは色々説明が成されていたが、本音はプラモデルの原価を削るのが目的だったんじゃないだろうか?思えば、劇中「小型だから」という演出は「従来機より機動力が勝る」という程度しか印象に残っていないのもこれを裏付けているような気がする。

この辺りの設定変更や、時代設定を敢えて連続したものとしなかったのは、恐らくシリーズ展開をしていくにつれ、自らのお約束に拘束され自由度を無くしていったガンダムに新しい風を吹き込もうとした為であろう。敢えて「ザク」を出さず、「アムロやシャア」を出さず、「ザビ家」も「ジオン」も出さない…。富野ガンダムがシリーズを通して描いてきた「ニュータイプ」についてもさらりと流しただけだ。つまり、「F91」は今までのお約束を敢えて描かないことで「新しい世代の新たなガンダム」を目指したのだ。ファーストガンダムのスタッフを再び集めたのも、この新しいシリーズのスタートを飾る為だったのではないだろうか?


しかし、先に述べたように本作「F91」は新たなガンダムの流れを作ることは出来なかった。本作には「ザビ家の選民思想」に成り代わる「コスモバビロニアの貴族主義」や、敵味方に分かれてしまう主人公シーブックとヒロインのセシリー、そして先述したバグやF91の分身殺法、更に鉄仮面ことカロッゾの無敵っぷり等、新しい魅力的な要素は数多く存在する。それでも新しいガンダムの流れを構築するまでには至らなかったのだ。

確かに作品自体が急ぎすぎている気配のある事は否めないし、実際よく裏設定を踏まえないと見えてこない部分も多い。しかしそれだけが本作の不評のすべてではない。私は、「F91」の不評の原因は「変わっていない」という点と、「遅すぎた」という2点であると推察している。

まず、「変わっていない」という点だ。先程「本作は今までのガンダムのお約束を敢えて外した」と書いたが、それは開くまで舞台設定やメカ設定の細部のみであって、実は根本的な部分は殆ど変わっていないのだ。唯一変ったと言えそうなものは、本作で描かれる主人公の家族関係が先代シリーズに比べ肯定的になっていると言うこと位であろう。

その最大の原因こそ、「宇宙世紀」と呼ばれる世界だ。ぶっちゃけた話をしてしまえば、「機動戦士ガンダム」という作品はそれ自体できちんと完結している作品である。しかし「Z」の登場により半ば強引にシリーズ化された事は「俺はガンダムマニアだ!!」なんて自負してしまう人には常識とも言えよう。その一大架空史はシリーズが進行するにつれ、徐々に作品の幅を狭めていく。時代としては広がっても、そのご都合主義的なアトヅケ設定により世界観そのものは排他的で狭いものとなってしまっていたのではないだろうか?

よく「F91」や続く宇宙世紀モノである「V」に対し、こんな批評をする人がいる。

「俺はF91とVは宇宙世紀として認めない」

…まぁ、認める認めないという彼等特有のエゴイズムはどうでもいいとして、実はこのマニアの言葉こそが「F91」が不人気に終わった理由をよく説明してくれているのだ。「F91」は、旧来のガンダムマニア達の望む「ジオン」「ザビ家」「アムロ&シャア」というキーワードを敢えて作品に封入せず、新しい時代に新しいガンダムを構築しようとした。

しかし、そんな製作者サイドの思惑を知ってか知らずかファンの意識は相変わらず旧来通りのガンダム作品を望むというもので、新しいガンダムを素直に受け入れる度量も育っていなかったのだろう。そう、ココで言う「変わらなかった」というのは、ファンの意識そのものの事なのだ。

そして、ファンが新しい展開を積極的に受け入れる事が出来なかったのも、「F91」という作品が世に出るのが「遅すぎた」からなのだ。ファーストガンダム以降、シリーズ化したガンダムは次の作品に決着を持ち込むという展開を続けた。「Z」の最終回に現実逃避したカミーユは、「ZZ」の中盤にて復活し、自らの分身とも言えるジュドーを導く役割を担った。更に、やはり「Z」の最終回で行方を眩ましたシャアは、「逆襲のシャア」にて因縁すべてを清算せんが為に挙兵する。


そして「逆襲のシャア」でもシャアとアムロの因縁に明確な決着はつかず、生死不明という形で答えをうやむやにした。こんな流れがあるから、明確な答えが出ていない状態で制作された今までと時代を隔てた「F91」をファンは素直に受け入れられなかったのではないだろうか?
今までのシリーズ展開により、シリーズで描かなければならない「お約束」がファンの中で定着してしまってから中途半端にお約束を否定した作品を持ってきても遅いのだ。前に記した「俺はF91とVは宇宙世紀として認めない」というファンの論法もこれを裏付けている。

シリーズを再スタートさせる為の「F91」とするなら、生まれる時代が遅かったのだ。もはや手遅れだったのだ。だからこそ「F91」に続く「V」の大失敗の後、ガンダムは「G」という異端児をシリーズ再生の「切り札」として登場させざるを得なくなったのだ。こういった要素が影響した事が、本作が世間であまり評価されない理由なのであろう。

しかし、「F91」が当初の予定通りテレビシリーズ化すれば、今現在とは違うガンダムが展開していたのかもしれない。そういう意味で語れば、「F91」は非常に惜しい作品でもあり、残念な作品とも言えるガンダムであろう。
少なくとも、今となってはエンディングの「THIS IS ONLY BEGINNING」というテロップは空しさがつのるだけである…。


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