より戦争の悲劇を

機動戦士ガンダム第08MS小隊 小説版

1999年 全3巻 原案:矢立肇、著:大河内一桜

簡単解説
宇宙世紀0079年、地球連邦とジオン公国の戦乱ももはや10ヶ月を過ぎようとしていた。膠着状態に陥っていた地球・アジア戦線のMS小隊長に命じられた新米少尉シロー・アマダは、コロニーから地球への転属の途中、ジオン軍の女パイロット・アイナと運命的な出会いをするのだが…。


この小説、タイトルからも分かる通り、OVA「機動戦士ガンダム第08MS小隊」のノベライズである。しかしOVA版とはいささか異なったストーリー展開をした作品であり、OVA版と小説版、双方の作品内容から受ける印象は大きく異なる。特に小説版はOVAに見られた中盤からのシローのアイナ一辺倒な部分が若干修正され、彼等2人の「ロミオとジュリエット」的なもの以外に戦争の悲劇といったものを作品全体にちりばめているので、ガンダムファンを自称する人の中では小説版の方を高く評価している人も少なくない。

この「08小隊小説版」を語るにおいて、まず始めに触れておかなくてはならない事がある。それは映像作品と活字作品の違いだ。一見、動きのある映像作品の方が、活字でしか舞台、動きを表現出来ない活字作品よりも作品の方が視聴者の理解度が高いと思われ易いが、一概にそうとも言えない。
確かに絵があり、しかもそれがフィルムの中で演技をする映像作品は、ビジュアルから来る情報量の多さから非常に分かり易いような感じを受ける。しかし、その情報量の多さ故に視聴者が受動的になってしまう傾向にある。想像を楽しむ余地が映像によって減ってしまう為、見ている側も「ああ、そうなんだ」と映像をそのまま受けとめるだけで終わってしまい易いのだ。

しかし、活字作品の場合は情報が文章のみに絞られている。だからこそ、活字作品では映像作品ではたった数秒程度のカットでも、キャラクターの心理、場の空気、雰囲気、状況までもを活字にて表現する必要がある為多くのページ数を必要とする事もある。読み手はそういった文章からキャラクター達の状況を想像し、頭の中で映像化するのが活字作品の魅力なのだ。

つまり、映像作品は表面的には情報量が多く、その表現力から雄弁に見えてしまうのだが、実は物語を理解させるという点においては本に羅列してある活字から一度読み手がビジュアルを想像するというプロセスを踏む活字作品の方が遥かに雄弁であるのだ。更に言えば、映像作品には必ずついて回る時間の枷も、映像作品の理解させる力を低下させる事もある。この事を踏まえれば、ベストセラー小説や人気マンガを実際に映像化したとしても必ずしも面白い作品とはなり得ないという事が見えてくると思う。

特に小説やマンガ等には「声」というものが存在しないし、小説に至っては明確な「絵」すらも表現されない。そういった要素は読者が自由に想像してよい部分であり、それが小説やマンガの楽しみ方の一つでもある。しかしそれが映像作品となり、実際に俳優なり声優が当てられてしまうと、今度は自分の想像した映像、声とのギャップに違和感を感じてしまうことも少なくない。同じドラマを表現するにおいても、映像と活字ではこれだけ表現の格差があり、描くべきモノも異なるのだ。

さて、それを踏まえた上で「08小隊小説版」について考えてみよう。小説版には、OVA版では少なかった悲愴なシーンと、OVA版には無かった陰惨なシーンが盛り込まれている。

悲愴なシーンとはやはりケルゲレン脱出までのジオン軍の死闘である。ケルゲレンで宇宙に脱出する仲間の退路を確保する為に、1人、また1人と捨石となり散っていくシーンは、読者にダイレクトで戦争の悲壮感をアピールする。OVA版ではジムスナイパーに撃墜されたケルゲレンは小説版ではなんとか無事に脱出出来るのだが、より戦争の悲壮感を感じさせるのは負傷兵の乗ったケルゲレンまで撃墜されるOVA版ではなく、ケルゲレンを無事脱出させる為に捨石となる兵士達を描いた小説版になるだろう。それは散っていく一人一人の兵士達の思い、本人しか知らないエピソードまでをも活字として作品に封入した為だ。時間とカット数に制限を持つ映像作品ではやりたくてみも絶対に出来ない演出、これを小説版では見せてくれるのだ。

そして陰惨なシーンの代表と言えば、恐らく小説版で1番話題になったであろう連邦軍によるバルク村襲撃シーンである。バルク村の人々にとっては、連邦軍もジオン軍も他所から人の土地にやってきて戦争をおっぱじめた厄介な連中である。

戦争という極限状態では非道だとか、残忍だとか言われる事も平然とまかり通ってしまう。そんな中、自分達の村を守る為、バルク村の連中はゲリラとなったのである。これはOVA、小説双方で共通する位置付けであろう。しかし、映像作品としての制約のあるOVA版で描かれたトップ小隊の1件よりも、小説版ではもっと陰惨な戦争を読者に見せつけるのである。

その最たるものが連邦軍兵士によるキキへの陵辱と、彼女の自殺であろう。キキがバルク村のゲリラ達にとってリーダーとして、ムードメーカーとして活躍する欠かせない存在であり、その一方ニブチンのシローに淡い恋心を抱く純情な一面を持つ少女としてキャラが立っていたのもその陰惨さを加速させる。

仲間を逃がす為にオトリとなるが、銃で足を撃ち抜かれレイプされそうになり、シローの名を叫びつつ自らの舌を噛み切る…。この表現、倫理委員会だの何だのという制約がつく映像作品では決して出来ないものである。映像にするにはあまりにも陰惨で、残酷だからだ。コレを実際に映像にしてしまったら、「臭作」とかと同様ビデオやDVDのパッケージに18禁のラベルが貼られかねない。これも活字作品ならではのエピソードと言えるのではないだろうか?

この「08小隊小説版」は、OVAという原作があるのを踏まえ、そのOVAでは描くことの出来なかった「08小隊」を描いているのだ。小説という活字ジャンルの長所を最大限に生かし、作品により深みを与えたのであろう。

もし、小説版が原作でOVAが後に作られたとしたら、この両作品の描いた戦争は大きく異なったものとなっていたかも知れない。そういった点から考えれば、原作を踏まえ、もう一歩突っ込んだ描き方をした「08小隊小説版」は原作より優れているという意見もあながち間違いではないと言えるだろう。

そして本作を語るにおいてもう一つ重要なエピソードがある。それが劇中劇「キャプテンジョー」だ。この「キャプテンジョー」は、作中シローが成長する為のキーアイテムとして機能しており、中々に深い含みがある。
主人公のシローは、この戦争ドラマの主人公「キャプテンジョー」の活躍に憧れて士官学校に入った。彼にとってジョーは憧れのヒーローといったものであろう。しかし、ケルゲレン脱出の為にアプサラスのビーム砲で空に描いた「キャプテンジョー」は、ジオンとの戦争のプロパカンダとして利用される存在と成り下がってしまっていた。これを見た連邦、ジオン双方の兵士達は

「ああ、連邦もジオンも同じなんだ…」

と気が付く。
ファーストガンダムが何故エポックなのか?と言われれば、やはり勧善懲悪のスタイルを排し、人間同士の生々しい戦争を描いた点にあるのだと思う。「正義の為の戦争」なんてものはこの世には存在しない…その真実を描いた点である。しかし、「ガンダム」という作品のテーマはいつしか戦争の真実ではなく、「ニュータイプ」等というただの超能力者の活躍を描いた作品に成り果ててしまった。

「30分オモチャCM」等と揶揄されたロボットアニメのアンチテーゼとして作られたガンダムは、いつしか新型モビルスーツのプラモデルを売る為に超能力者が活躍するというかつてと同じ轍を踏むようになってしまったのだ。そこにあるのは敵を悪だと信じて戦うニュータイプ達の姿である。特に、敵に向かって「お前は生きていてはいけない存在なんだ!!」等と叫ぶカミーユなどその最たる例と言えよう。つまり、正義の戦いを否定する立場にあった筈のガンダムは、正義の戦いを描いたかつてのロボットアニメと大差ない立場まで落ち込んでしまったのである。

そんな中、本作の「キャプテンジョー」という存在は本来ガンダムが描くべき筈だった従来のテーマ「戦争の現実」というものを訴える為上手く作品上で機能しており、主人公に「正義の為の戦争などない」と知らしめる一端を担った重要なキーアイテムである。現実を知らない、自立しきれていないシローの分身としてのその存在はも中々にユニークであり、またそれを上手く使いこなしているし、この「キャプテンジョー」の存在があったればこそ、後半のジオン軍兵士達の悲愴な戦い、そしてその戦いを生き延びたシロー達のささやかな幸せを描くことが出来たのではないだろうか。この劇中劇が存在していなければ、恐らく小説版もOVAをなぞっただけのものになってしまったのではないかと思う。

ちなみに、小説版でもOVA版と同様シローは片足を失うことになるのだが、OVA版のラストシーン、アイナに肩を支えられて去っていくシローの手前に映る墓は、ギニアスのものでもノリスのものでもケルゲレン乗員のものでもなく、なんとシローの足の墓なのだという。小説版とは関係無いが、ネタとしてココに記しておく。


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