見た目だけ紳士

THE ビッグオー (1st&2nd統合)

(1st)1999年 (2nd)2003年 サンライズ 全13+13話
声の出演 宮本充、清川元夢、玄田哲章、矢島晶子、篠原恵美、他

簡単解説
私の名はロジャー・スミス。この記憶喪失の街「パラダイムシティ」に無くてはならない仕事、「ネゴシエイター」が私のもう一つの名前だ。しかしいつの世にも、暴力でのみ物事を解決しようとする輩が大勢いる。そんな奴等にはこうするまでだ…。「ビッグオー・ショォォォォタァァァァイム!!」


今ではさほど珍しくはないのだが、今作「THE ビッグオー」は有料の衛星放送チャンネル「WOWOW」のオリジナルアニメーションとして話題を呼んだ。そしてその高い作画はOVA作品と比べてもなんら遜色のないほど高い完成度を誇っている。それもその筈、この作品のスタッフの多くはあの傑作OVA「ジャイアントロボ〜地球が静止する日〜」のスタッフなのである。

そして何より、主役ロボットである「ビッグオー」の存在が、「レトロながらモダン」という作品の印象を決定的なものにしている。現在発売中の「ビッグオー」のDVDソフトに付属している谷崎あきら氏のコメントを引用させてもらえば、「ビッグオーは久々に登場した要塞志向のロボット」なのである。

氏の説明によると、ロボットの種類は2種類あり、それは「戦士志向のロボット」と「要塞志向のロボット」なのだという。前者は携帯武器や徒手空拳での闘いを好み、後者はその巨体に超兵器を満載するそれ自体が無敵の要塞なのだという。確かにこの分類は安易な「リアルロボット志向」と「スーパーロボット志向」という分類に比べ説得力があり、その区分でビッグオーを判別すれば間違い無く「要塞志向」になる。

また、パラダイムシティの「記憶喪失の街」という設定も秀逸であり、そこに生きる人々も魅力的である。(しかし、どこかで見たような設定のキャラクターが多い。が、私は「パクり」も技術の一つであると考えているのでここで言及はしない。)誰もがそれぞれに何かを抱えて生きている。この辺りの描写が物語に独特のモダンさ、いわばスタイリッシュな印象を与えているのであろう。

但し、肝心要の「パラダイムシティの人々が記憶を失った理由」というものが完全にボカされてしまっており、ビッグオー等のメガデウスの謎に関しても明確に答えが出されていない。この部分は減点対象である。物語の屋台骨であった2つの謎に答えを出せなかった…思えばたった1クールの作品にしてはそういった要素を詰め込み過ぎている印象はある。もう最低1クールぐらいゆったりとこの世界観を描ければ、恐らくボカされた答えにもちゃんとした解答が出せるまで世界観を構築出来たであろう。この辺りはなんとも残念な部分…というのが最初のクールを見ての私の感想だった。

そんな事を考えていたのは私だけでは無い様で、米国はカートゥーンネットワークと共同で続編「2ndシーズン」が制作される。コチラは日本での放送局がMXや千葉テレビというローカル局というハンデを負いながらも、それなりにヒットを飛ばしている。

しかし、個人的にはこの「2ndシーズン」の存在に困惑気味…というか、完全決着とはなりえていない「1stシーズン」への解答という点に固執すれば、結局は何も解決していないただの蛇足になり果てている…そんな印象を受けた。

結局、最終回を迎えても「なぜパラダイムシティの人々は記憶を失ったのか」「40年前の出来事とは何なのか」「メガデウスは誰が作ったのか」…そういったモロモロの謎に答えを打ち出す訳でもなく、余計ジャマ臭い謎が増えただけ…「1stシーズン」を見て、「続編を作って謎を解明させて欲しい」と願ったファンの心情は完全においてけぼりを食わされたと言っても言い過ぎではなかろう。

こうなった原因は、やはり2部の新機軸として打ち出された「ロジャー対アレックス」という構図だろう。1部では一応「シュバルツバルト」なんてキャラクターは存在していたが、基本的なプロットは1話完結型のスタイルを守っており、それがドラマのネタをナンデモアリにしていた。だからこそ、私は不満はあるものの謎の解明を放棄してしまった1部の終わらせ方も「致し方あるまい…」という評価に留めたのだし、主人公であるロジャーの薄っぺらさ加減にも左程拘る事を止めた。

しかし、ドラマの軸をなまじ設けてしまった為に、今まで視聴者をジラし続け、構築してきた謎が何処かへすっ飛んでしまったのだ。その為か、2部のキャラクターの言動には強い違和感を持たざるを得ない。特に、1部から謎の女として登場していたエンジェル…恐らく彼女のモチーフは「ルパンV世」の峰不二子辺りなんだろうが、彼女に対して抱いた違和感は凄まじかった。

1部では登場する頻度が少なかったこともあり、スタッフが彼女のキャラクターとして打ち出したかった猫のような孤高さは描かれてこそいないものの、モチーフであろう峰不二子のイメージのおかげもあってなのかそんなには大きく崩れることも無かった。しかし2部で見せたロジャーとドロシーに対する複雑な心情…これを見て、私は

「コイツ、そういう女だったかぁ〜!?」

等と感じてしまった。私は別にこのエンジェルというキャラクターに思い入れなんか無いのだが、2部での彼女には違和感を強く感じてしまう。恐らくスタッフは「孤独な女がふと見せた脆さ」なんてものを出したかったのだろうが、はっきり言って2部での彼女の言動は平日の昼間にやっているメロドラマのヒロインみたいである。そして恐ろしいことにこういった違和感は彼女だけに感じると言うような生易しいものでなく、第2部では作品全体に漂っているのだ。

通常、1話完結型よりも一貫した流れのあるドラマの方が、よりキャラクター1人1人に対しての掘り下げたドラマ作りが可能な為、こういった違和感を感じ難いものだと思うのだが…ナゼ「ビッグオー」の場合はこの正反対の状態に陥ったんだろうか?

その原因の一つと考えられるものが、講談社のコミカライズ版「THE ビッグオー」の2巻…これに掲載されたアニメスタッフの座談会で見て取れる。ではその問題の部分…座談会でのさとうけいいち氏と片山一良氏の発言を引用しよう。

さとう:ちなみにファンの人に「どうしてシュバルツバルトって黒い森っていうけど、どうして?」って聞かれた時は”ガクン”って。

片山:シュバルツバルトっていうのは、ヨーロッパ人の心の中の狂気とトラウマなんだよ。昔ヨーロッパは森がうっそうと茂っていて、その闇の中に何がいるかわかんないっていう、それに対する恐怖感とそれに反比例する征服欲みたいなものがあってね。黒い森って凄い意味があるんですよ。欧米人にとっては。

…少なくとも私は「欧米人」じゃなくて「日本人」だもんなぁ。勝手な言い分で呆れられても、そんなもん知ったこっちゃ無いね。(苦笑)

この言葉、我々に「アニメを見る前に勉強しろ」という事なんだろうか?こんなの、作品において自分達が言葉足らずであった事を開き直っているだけでしょ?そもそもファンからこういう質問が上がって来る事からして、自分達の言葉足らずを証明しているんじゃないだろうか?

私は面倒臭がり屋なので、たかがエンターティメントに過ぎないアニメごときをお勉強してまで見るつもりは無いが、もし「この作品は勉強してから見てくれ」というのであれば、事前にそういう風にアナウンスをすれば良い。いや、する事がファンへの最低限の礼儀であり、作家としてのモラルなんじゃなかろうか。
この発言は、ファンの勉強不足を揶揄するようなものではなく、自分達クリエイター側の言葉足らずさ…いや、突き詰めて言ってしまえば「頭でっかちの知ったかぶり」を証明しているだけなんじゃなかろうか。最初から2クールでの放映となっていればそれ相応の、違和感の無いキャラクター描写が出来たのでは?という意見もあるかもしれないが。私には上の対談記事に現れているような、自分達の言葉足らずを視聴者側に擦り付ける…という印象から察するに、ただ単に下手糞で自分本位だっただけで企画云々は作品に言われる程の影響はない気もする。

思えば、上で書いた2部での違和感…安っぽい女っぷりを発揮するエンジェルというようなものや、第1部の方から各地で指摘されているロジャーの「ハードボイルドぶっているだけ」という薄っぺらいイメージ…更には、明確な解答を出す為の続編の筈が、結局何も解決させなかった点…こういったモノは、全てスタッフ達の「知識先行型で頭でっかちの知ったかぶり」という性質が生んだものなのではないだろうか。

色々な要素を「ほら、面白いでしょ?」と取り込んだ挙句、結局は作品に1本スジを持たせることが出来ずにスタッフ達のマスターベーションに成り下がった…つまり、コレはこういうものなんだ、という知識だけに囚われ、センスが欠如してしまっているのだ。

「40年前の出来事により記憶を失った街」
「失われた記憶を求める人々の葛藤」
「存在、出自全てが謎の巨大ロボット」
「ネゴシエーターを営むハードボイルドヒーロー」
「人間を愛したアンドロイドの悲哀」

…魅力的なアイデアを、パクりと言われようと引っ張り出す能力は持っている。しかし、その調理方法を完全に間違えている…いや、知らないし、考えるだけの度量もないのだ。そもそもこの「ビッグオー」において打ち出されたアイデアというものすら、その殆どが過去のSFやら何やらのオマージュにもパロディにもなっていない只のパクり…つまりは、経験則やセンスに基づく調理方法が欠如した状態で、ひたすら有効に活かせる訳でもない知識ばかりが先行してしまっている。「名古屋コーチンは普通の鶏より美味しい」という知識はあっても、その調理方法を知らないから生きたままの名古屋コーチンを皿の上に乗せて、「美味しそうでしょ?さあ食べてください」と言っているようなものなのだ。大昔の名作のあのネタ、という奴が出るだけで嬉しい、というようなファンだけではない。やっぱりパクるならパクるで自分なりの解釈や演出を入れる必要はある訳で、さもなくばホントに只のパクりになってしまう。だからこそ、パクり元を知らない若い世代には斬新と受け入れられても、元ネタを知る者にとってはシラケ以外の何物でもなくなっているのだ。

知識に対し、センスや経験則といった中身が伴わないからそこにリアリティなど生まれる筈も無く、結局は謎の解明も放棄し、言葉遊び的なものに逃げ込んでしまっている。残ったのは結局空虚な世界観だけ…。やりたいこと、視聴者に見せたいものを考えられぬ内に、取り敢えず形だけ取り繕って進行してしまった…それがこの「THE ビッグオー」という作品なんじゃないだろうか。


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