ツケを払わされた主人公

機動戦士Zガンダム

1985年 全50話 サンライズ 名古屋テレビ系放送
声の出演:飛田展男、池田秀一、鈴置洋孝、島田敏、井上和彦、他

簡単解説
地球連邦とジオン公国の1年戦争が終結して7年後、連邦軍はエウーゴとティターンズに2分して抗争を繰り返していた。コロニーに住む少年「カミーユ・ビダン」はふとしたキッカケでティターンズのMS「ガンダムMK−2」を奪取し、そのままエウーゴに参加することになる。


ご存知の通り、「機動戦士Zガンダム」は「機動戦士ガンダム」の正統続編として制作された作品であり、その複雑かつ壮絶なストーリーは現在でも根強いファンが存在している。この「Z」こそが、以降に続く「ガンダムシリーズ」としての先駆けと言っても良いだろう。しかし、先代である「ファーストガンダム」と同様この作品について語っているサイトはいくらでもあるので、今回も僭越ながら私の個人的な持論を展開することにする。

この「Z」、エンディングのスタッフロールを見れば分かる通り、この作品の主人公は「クワトロ・バジーナ」と名乗っているシャア・アズナブルである。一応「カミーユ・ビダン」という少年を主人公に据えてはいるものの、はっきり言ってそれは傀儡に過ぎない。それは本編を見ていた人にはすぐ感じられた事であろう。

しかし本当の意味での主人公は、監督を務めた富野由悠季氏の立場そのものなのである。ここ「大惨事」の「逆襲のシャア」の項でも記した通り、富野氏はとあるインタビューにて「シャアというキャラクターに思い入れはないが、彼の言葉を借りて色々なことを言って来た。」とコメントしている。この「Z」におけるクワトロの台詞の多くは、富野氏自身のものだったのではないだろうか?つまり、本作におけるシャアは富野氏自身の象徴なのである。

まず、シャアが「クワトロ」という偽名を用いたのは「ガンダム」の続編という設定で作られてはいるが、「Z」は「Z」で先代とは違う独自の作品としようとしたことに由来すると考えられる。事実シャアを筆頭に先代で活躍したキャラクターも本作に数多く登場するものの、シャア以外はストーリーそのものを動かしていくような立場にはいない。特に「ニュータイプ能力を危険視され云々…」という設定で半ば軟禁状態になっているアムロはその最たる例と言えるだろう。そういった先代の影響を極力排し、「新たなガンダム」を構築しようとしたのだ。その象徴が「主役機Zガンダムのパイロット」にして「傀儡主人公」の「カミーユ」という訳だ。

そしてジャミトフやバスクといったティターンズは言わばスポンサーといったものの象徴であり、「先代」から続くファンを商業的に有効利用しようとしている連中である。せっかく先代のエンディングで「人の革新」というものに対して一応の前向きな結末を与えたのに、彼等ティターンズは危険分子、すなわち「スペースノイドの粛清」という屁理屈をこねて地球圏に再び災いの種を撒き散らす。

そういった行為は決して「人類を良い方向へ導こう」といった確固たる信念から来ての行動ではない。ジャミトフが権力を貪る、つまりは私利私欲の為である。そのエゴの為に「ガンダムを組織の象徴」にしたり、「なんの脈略もないまま可変MSを急遽登場させる」といった事を平然とやるティターンズは、正に「商業主義」に走っているスポンサー陣そのものなのではないか!!その事はジェリドの「ティターンズ(スポンサー)は(金の)力だ!!(金の)力こそ(作品の)すべてを制するのだ!!」という台詞が証明している。

では、シロッコやハマーン率いるアクシズはどうなるのか?彼等は先代のニュータイプ思想や設定にこだわり過ぎた旧作ファンの象徴なのである。「自らが都合のいい様に解釈したニュータイプ論」を全面に出すシロッコや、「先代で決着が着いている筈のザビ家なんてサビついた設定をいまさらほじくり返す」ハマーンは、先代を無意味に神聖化して新作を拒絶してしまった古株のファンそのものなのである。

彼等はそれぞれ「ニュータイプのなりそこない(偉大なる先代の名を汚す者)」「私と来てくれれば…(私の求めるガンダムであれば…)」等と勝手な言い分を駆使してクワトロ、いや富野氏を攻撃していたのだ。そして新作の象徴であるカミーユに対しても「貴様に私が倒せるのか?(先代を超えることなど出来ない)」「期待を裏切った!!(そのままの意)」といった言葉を浴びせるのだ。

そう考えるとファーストガンダムでの「颯爽たるシャア」とはダンチなクワトロの持つ一種独特の情けなさや、ダカールでの演説の支離滅裂な感じも理解出来るだろう。

そういった収集がつかなくなった物語に対しての富野氏の答えが「誰も居ない大破した百式のコクピット」であり、そういった諸々のツケを払わされたのが、新作の象徴であった「カミーユの人格崩壊」である。
即ち、「機動戦士Zガンダム」とは決着した筈の作品をスポンサーの商業主義とファンの期待によって引っ張り出されてしまった富野氏の「苦悩の日記」でもあるのだ。そしてその日記の結末が「逆襲のシャア」であり、「∀ガンダム」なのだ。

しかし、そんな極めて個人的な苦悩をエンターティメントであるアニメーションで世間に訴えてどうなるのだろうか?いや、何にもならないのである。何にもならなかったら作品としてどうなるか?それは当然面白いものとはならない。
この「Z」以降、富野氏はアニメ誌等で企画された自分自身の作品のインタビューでよくこんな言葉を吐いている。

「ボクは何をやったか全然覚えていないんです。」

このセリフ、その作品のファンならずとも思わず、「アンタが監督したんじゃないのかよ!!」と呆れ半分でツッコミを入れたい衝動に駆られてしまう。自分が監督した作品を自分自身で貶めてしまう行為が、その作品を受け入れてくれたファンをも否定している事になる。これは「より良い作品を」というクリエイターとしての誇りなどでは決して無い。単なる作家としてのナルシズムに過ぎないのだ。その言動が本当にクリエイターとしての誇りからくるものならば、自分自身の作り上げた作品を否定したりはしないし、それ以前に自分が嫌いになってしまうような作品は作らないのがクリエイターとしての最低限のモラルではないだろうか。

作家がそんな逃げ腰になっているからこそ、この「Z」という作品はなんとも無情でやりきれない作品になってしまったのだと思う。この作品の「ニュータイプ」という言葉には設定で色々定義されているのは別として、「機動戦士ガンダム」という作品への比喩のような意味合いが隠されている。カミーユが物語序盤で「アムロ・レイの再来」と言われたのはつまり「Z」こそが新しい「ガンダム」となるのだという意気込みであったのだろう。

しかし彼の結末は自分勝手な解釈のニュータイプ論を振りかざす嫌味な男、シロッコとの相打ちである。既にその時期には続けて「ZZ」が放映されることが決定していたからかろうじて生き延びたカミーユだが代償として精神を崩壊させてしまう。つまり、「Z」の結末とは「新しいガンダムは無理でした。でもスポンサーは続けろって言ってます」という逃避の現われなのだ。
そしてもう一つの結末、「誰もいない百式のコクピット」は「『機動戦士ガンダム』ではファンにボクの気持ちを分からせることが出来たけど、『Z』じゃ無理だったのでもうボクは逃げちゃいま〜す」という富野氏のワガママな意思表示だったのだ。

自らが作り、完結させた筈の作品を商売の為だけに蒸し返したスポンサーに不快感を感じているのは分かる。でもせめて自分で蒔いたタネくらい自分でキチッと摘み取るべきだったのではないだろうか?スポンサーのご都合商業主義や「偉大なる先代」のファンの期待、そういった中で「新しいガンダム」を作るのが難しいのは私にも分かる。しかし、だからこそ「Zガンダム」での富野氏の分身は最終的に「皆ボクの事を分かってくれないんだ!!」と逃避するクワトロではなく、「カミーユ=新しいガンダム」との出会いから訪れた人生の転機で己を狂わされ、挙句の果てに親友や恋人まで失ってもしつこくカミーユに食らい付いて玉砕したジェリド・メサでなくてはならなかったのではないだろうか。

「Z」以降、自分の作品に関して「ボクは何をやったか全然覚えてません」なんて発言を繰り返す富野氏に、「もうメディアを使って何も言ってくれるな!!」という憤りを覚えたのは私だけではない筈だ。


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