「Z」の対として評されるのは宿命か?

機動戦士ガンダムZZ

1986年 全47話 サンライズ 名古屋テレビ系放送
声の出演:矢尾一樹、鈴置洋孝、岡本麻弥、広森信吾、原えりこ、他

簡単解説
グリプスを巡るティターンズとアクシズとの戦闘で疲弊しきったアーガマは、サイド1のコロニー「シャングリラ」に入港する。その噂を嗅ぎつけたジャンク屋を営む少年「ジュドー・アーシタ」と仲間達は偶然回収した脱出ポットに乗っていた元ティターンズのパイロット、ヤザン・ゲーブルと共謀し、「Zガンダム」を盗み出そうとするが…。


エウーゴ、ティターンズ、アクシズという複雑に絡み合う三つ巴を描いた「Zガンダム」の結末は、皆さんもご存知の通り「大破した百式の無人のコクピット」であり、「精神崩壊を起こしたカミーユ」であった。スポンサーサイドのテコ入れと、新たな物語をかたくなに否定した旧作を神聖視するファンによって、もはや「皆殺し」として幕を下ろすしか術が無くなってしまった…そんな何ともやりきれないような印象を「Zガンダム」に抱いている人も多いのではないだろうか?そんな状況で放映が開始されたのが本作「機動戦士ガンダムZZ」である。

前作の評価を受けてか、「ZZ」は「Z」とは打って変わって明るいコメディ色の強い幕開けを見せる。主人公は元気印の少年、その少年に盗まれたZガンダムはコロニー内で踊りを踊る。そんな頼りないZガンダムが戦うのはハマーン様命の天然指揮官マシュマー・セロや、ジャンク屋ゲモン・バジャックとナゼかギャグキャラクターに身を落としたヤザン・ゲーブルの2人が乗るハンドメイドモビルワーカー・ゲゼ…。

そして主役機「ZZガンダム」は「ゲッターロボ」まがいの合体シーンを見せ、合体完了後にポーズまで決める始末…。この前作「Z」の対極を為すようなハチャメチャな展開はファーストガンダムを崇拝し、「Zガンダム」を否定し続けたファンを呼び戻すどころか、「Zガンダム」そのもののファンすら置いてけぼりを食らわす結果となる。確かに「リアリティ」どころか「リアル」を前面に打ち出し、富野調とでも言うべきドロドロとしたイメージの強い「Z」に対し、「ファーストガンダム」どころか「マジンガーZ」の時代までさかのぼったかのような設定、演出を持つ本作ではそのギャップに違和感を感じてしまっても仕方ないと言える。その為か、後半ではシリアスな展開に路線変更を余儀なくされた。しかしどうだろう?私としては前半のハチャメチャムードこそ本作「ZZガンダム」の魅力のように思えてならないのだ。

とにかく元気一杯のヤンチャなジュドー達シャングリラの悪ガキ達を主軸に据え、彼等と戦うのは主君ハマーン様に心酔している熱血天然士官マシュマーと、そんな上官に頭を抱えている下士官ゴットンの漫才コンビ。そしてそんなコンビに割ってはいるのはMSに乗るとエクスタシーを感じるという妙な性癖を持つ爆乳女士官キャラ・スーン。更に、ルー・ルカに手玉に取られてしまうお坊ちゃまで、後に出世して活躍するグレミー・トト…。

この様な敵側にアクの強いキャラクターを配置する手法は「マジンガーZ」以来の「スーパーロボットアニメ」の常套手段である。つまり、本作「ZZガンダム」は「ファーストガンダム」への回帰を超えた、「スーパーロボットアニメ」としての本来の姿への回帰なのではないだろうか?それはそのまま「リアリティ」ではなく「リアル」という幻像を生み、必要以上に物語を複雑化し、逃げとも取られかねない「皆殺し」に終わった「Zガンダム」へのアンチテーゼとなるのである。

更に、後に「恐竜的進化」と説明が為される事になるMS群も、そのデザイン設定を数多くのデザイナーが様々なアイデアを盛り込み競い合う、言わば「デザインコンペ」的に行われたという。そのシステムがハンマ・ハンマやドーベン・ウルフ、ゲーマルク、ズサ、ゲゼといったユニークで迫力のある機体を数多く排出することになるのだ。本作でのネオジオン側のMSデザインが、後の「アナザーガンダム」に登場する個性的なガンダムを生んだのではないだろうか?もっともコレにより「Z」以上にMSデザインが何でもアリになり過ぎてしまった感はある。もっとも、戦局がエウーゴ(と、いうよりガンダムチーム)対アクシズ改めネオジオン、という二軸化したおかげで、「Z」の時の様に陣営毎にデザインの特徴がウヤムヤになってしまってどの機体がどの陣営か分かり難くなっていたりする事は少なかったのは救いか。

そしてそんなメカ達が必ず見せ場を与えられているのも印象的だ。特に「Z」にも登場したものの、なんだか印象の薄かったサイコガンダムMK−Uの登場する「プルとプルツー」は物語上のキーポイントである点を差し引いても十二分に迫力のある演出が為されている。少なくとも「Z」の時の様な、「敵の新型か!?」なんて思ったらすぐに撃墜されて…なんてツマラン事は少なくなっていた。こういったメカをメカとして動かし、キチッと仕事をさせる演出というものは、長期に渡り放映されるテレビ作品では特に効果的に働くのだ。

こういった魅力的な要素をも踏まえている「ZZ」ではあるが、「宇宙世紀」、特に前作である「Z」ガンダムを崇拝しているファンにはとにかく評判が悪い。その為視聴率は低迷し、後半では急激に「Z」のようなシリアスムードに路線変更が成される。しかしどうだろう?逆説的な物言いをしてしまえば、「Zガンダム」があんなんだったから「ZZ」はああいう路線にするしかなかったとは考えられないだろうか?それは、両作品のキャラクター配置を比べて見ればおのずと答えが出る。

カミーユとジュドー、この2人は本作のクライマックスでジュドーがカミーユの事を「もう1人の自分」と語っていた通り非常に似た部分を持っている。例えば2人とも「ニュータイプ」である点や、性格に暴走傾向が見受けられる点、なのかナゼか敵の強化人間に好意を持たれる点…この類似点は挙げればキリがない。しかしカミーユとジュドーの2人の大きな違いは、カミーユは己のコンプレックスが暴走の引き金であるのに対し、ジュドーの暴走は持ち前のバイタリティから来る、という点である。

思い返せばカミーユ、ジュドー共に両親とは離れた環境にある。カミーユの両親はお互い仕事の虫であり、父親に至っては外で愛人を囲っている。ジュドーの両親は他のコロニーに出稼ぎに行っているという事だが、劇中でジュドーが両親に対して想いを馳せるような描写は見当たらない。

2人とも「家族」という枠組みでは特殊な環境に置かれている子供ではあるものの、その内容は大きく異なる。カミーユは両親に対してかなり強いコンプレックスを持っており、その両親のつけた「女のような名前」を毛嫌いしている。しかしそのコンプレックスが原因で心は脆弱極まりなく、事ある毎にキレて暴走する。

それに対してジュドーは両親に対するコンプレックスは持っていない。序盤ではリイナを山の手の学校に入れてやる為に、敢えて危険なジャンク屋をして生計を支えている。子供故の浅墓さから時に暴走するものの、両親の手を借りずに妹と一緒に逞しく生きており、少なくとも親に依存してはいないのだ。
そう、カミーユは何だかんだ言いつつも保護される立場…即ち両親に依存している状況にいたのだが、ジュドーは一応両親の手からは独立しており、守るべき対象を持っている為自立(少なくともカミーユよりは)しているのである。この違いこそが「Z」と「ZZ」の違いなのではないだろうか?

つまり、「ZZ」の魅力、それは前作「Z」の対極となるものなのだが、これは物語前半部分に凝縮されているのだ。もっとも物語中盤以降、ジュドーはカミーユと同じくニュータイプ能力を自覚し、有効利用するようになってしまうのだが、本来ジュドーはニュータイプを否定するべき立場に居たのではないかと思う。
その否定の原動力こそが彼の持ち前のバイタリティであり、元気の良さだったのだ。

自らのニュータイプとしての能力に頼ることなく、ニュータイプという言葉によって歪んでしまった連中…それはハマーンであり、グレミーであり…と戦うことによって、「ニュータイプは戦争の道具じゃない」ことを証明するのが本来の「ジュドー・アーシタ」の役割だったのではないだろうか。だからこそ当初彼はバイタリティ溢れる元気な少年として設定されたのだし、最後の最後まで自分の能力に押しつぶされる事もなかったのだ。「Z」にて、戦争に利用されるカミーユを描いてしまったが故に、ジュドーはそれを否定し、自らを貫く存在として、「ガンダム」という重々しい作品に不釣合いな程のバイタリティを与えられたのだ。

そう考えると、「Z」ファンが毛嫌いする序盤の「ZZ」こそが本当の「ZZ」であるような気がしないだろうか?主人公設定からして「反Z」を意識したものなのだから、前作のシリアスムードを一新するコミカルな演出も十二分に意味があるものなのだ。
だからこそ私は、「ZZ」には最後まで序盤のノリで展開してもらいたかったという思いがある。その方が小難しい「ニュータイプ論」だの陰湿な愛憎劇だのを描くよりも、「Z」の続編として意味のある作品に仕上がったのではないかと思うのだ。そう、「戦闘メカ ザブングル」の様に、バカ騒ぎの中にもキラリと光るものがある魅力的な作品に…。

物語冒頭でのヤザンの服装を見て、彼に「ティンプ・シャローン」になることを期待したのは私だけだろうか…。


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