ガンダム復活へ浴びせられた冷や水

機動戦士Vガンダム

1993年 サンライズ 全51話 テレビ朝日系放送
声の出演:坂口大助、黒田由美、白石文子、塙臣幸、渡辺久美子、他

簡単解説
宇宙世紀0153年、宇宙秩序の構築を目的とするザンスカール帝国の侵攻が地球に迫っていた。ザンスカール帝国に対抗する為に組織されたリガ・ミリティアは最新鋭モビルスーツ「Vガンダム」を開発し、闘いを挑む。ポイント・カサレリアで暮らしていた少年「ウッソ・エヴィン」はひょんなことからVガンダムに乗り込み、ザンスカール帝国のイエロージャケットと交戦する。これを契機に、ウッソ少年は戦争という悲劇に巻き込まれていく。


平成に制作されたガンダムの中では唯一「宇宙世紀」を舞台とする作品がこの「機動戦士Vガンダム」である。その為かこの「Vガンダム」は以降の「G」「W」「X」の3作品とは違う括りで語られるケースが多い。つまりこの「Vガンダム」は今のところガンダム最後の作品である「∀ガンダム」と同様、「平成ガンダム」であって「平成ガンダム」に区分されない微妙な立場の作品といえる。

しかしその区分は「Vガンダム」の作風が「宇宙世紀」を舞台としたものであり、監督も「ファーストガンダム」を生み出した富野由悠季氏が務めている事から簡単に理解出来るものだ。ちなみに「∀ガンダム」は「宇宙世紀モノ」と「アナザーガンダム」を一緒くたにした結末を与えられている為、一部のコアなガンダムファンに「全肯定(ホントはガンダム全否定なのだが)」等と言われ、その立場を微妙な位置付けにしている。

この作品は、スポンサーサイドが意図したであろう「ファーストガンダムの復活」を主軸に描いた作品であり、極めて「機動戦士ガンダム」のお約束に基づいて物語が展開される。それは例えば主役機の「Vガンダム」がファーストガンダムと同様に「ハンガー」「コアファイター」「ブーツ」と呼ばれる3つのパーツにて構成されている点や、Gパーツを正に「強化パーツ」として徹底したような「V2ガンダム」の「アサルト」「バスター」パーツ等に色濃く出ている。そして富野氏の作品にて必ず描かれる「母性」を思わせる何かが物語の根底で展開されているのも特徴と言えるだろう。

更にこの「Vガンダム」の主人公であるウッソ少年は作中言わば天才少年的に描かれてはいるが、決して物語の土台を揺るがすような活躍はしていない。ウッソ少年の人並みはずれた才能を持ってしても、世界に祈りを捧げるシャクティ&マリア母子や、女としての己に忠実なカテジナ、母として、女としての責務を果たそうとするマーベットやシュラク隊の面々、その誰にも勝つことが出来ないのだ。この当りの設定は聖戦士としてもてはやされても所詮はアウトサイダーな「ダンバイン」のショウや、自分を奪い合う2人の女性の間で妙に目立たなくなっていた「エルガイム」のダバといったかつての「富野作品」の主役達に被るところが大きい。

いや、この「Vガンダム」という作品は富野氏自信が1番嫌っている「Zガンダム」に似ている気がする。思えばこの「Vガンダム」という作品が作られた背景からして「Z」の時と殆ど同じであるのだ。「V」が放映された時期というのは、若年層向けとして展開していた「武者頑駄無」や「騎士ガンダム」といったいわゆるSD路線がジリ貧になりつつあった時期である。映像作品としてもOVA「0083」がそれなりの人気を得た程度で単発的だった。そんな中黒幕であるバンダイがこのままではマズイと打ち出したのがいわゆる「平成ガンダム」なのだろう。

そんな中白羽が立ったのはやっぱり「機動戦士ガンダム」の生みの親である富野由悠季氏である。こういう観点から見ると「V」と「Z」が作られた経緯というのはかなり近いと言えるんじゃなかろうか。「Z」の際は恐らくスポンサーや制作サイドから「ガンダムの続編なら金になる」という理由で引っ張り出されたのだろうが、作品半ばで「ボクの事なんかみんな分かってくれないんだ!!」などと言うダダをこねて作品自体を放棄したような終わらせ方になっていた。コレに対し、「ちゃんと決着がついたじゃないか!!」と反論する方も居られるだろうが、終わったのはティターンズという組織とシロッコの野望だけであり、シャアの去就、アクシズのジオン残党とミネバ・ザビ、アムロとシャアの決着、ニュータイプとは何なのか…その他モロモロに関しては何一つ決着がつけられていない。無論「ガンダム」を宇宙世紀というシリーズの枠で語るのであれば、回答は完全とはいえないがそれなりに回答が得られた訳だが、「Z」単発を捉えるならば、結局は答えを先延ばしにしただけで終わっているのだ。

聞く所によると、昨今劇場版が今更制作された「Z」であるが、この試写会だか何だかに出席した富野氏は、現時点での最新作にしてある意味「G」よりも色々物議を呼んでいる「シード」に対して怒り心頭だ、というような主旨の発言をしたらしいが…自分自身で平成になってからのガンダム復活に加担しておいてそれはないだろう。散々「Z」やらに関するインタビューにて自分の作品をクソミソに叩き、自分でファンに対し「ガンダムファンは可哀想だ」的な発言をしてしまった氏は、平成における「ガンダム」復活に関わるべきじゃなかったんじゃなかろうか。

いや、そりゃあ富野氏が「Z」で自分がやってしまったことを自覚して、二度とそれを繰り返さないのならばこれはむしろ喜ばしいことである。しかし富野センセ、今回も丸っきり同じ事をしでかしたのだ。いや、むしろ今回の富野氏の行動には、はっきり言ってワザとやっている匂いがする。

今回も相変わらず「皆殺し」というパターンを用いるのだが、この「V」は今までの皆殺しよりも遥かに先鋭化され、グロテスクである。そんな生理的な嫌悪感を覚えてしまうような演出にて、次々と敵味方、良い人悪い人を殺していくのだ。その描き方が今までの皆殺しよりも遥かに陰湿で、極めて残酷なのだ。これでは数字を伸ばせといったって無理というモノだ。夕方、お母さん方が夕飯の準備をしている最中こんなグロテスクな物語を見てしまったら、せっかくのご飯もマズくなってしまう。

つまり、今回富野氏がこの「Vガンダム」という作品を引き受けた理由は、ある意味スポンサーサイドへの復讐なのだろう。しかしこんな物をエンターティメントであるアニメでやったらどうなるのか?(ん?この文どこかで書いた気が…)

そう、何にもならないのである。富野氏は自らの作品を自らの復讐の道具に使ってしまったのだ。このやり口、卑怯極まりない。そして今回富野氏が振りかざした復讐のターゲットは何もスポンサーだけに留まらない。そのターゲットには我々ファンや、氏と共に「Vガンダム」を作ったスタッフにも向けられていたのだ。そう考えると、「V」限定のムック本としてササキバラゴウ氏辺りが「それがVガンダムだ」なんてモノを刊行して、マニアックな部分で「最も富野らしい作品」なんて支持を受けてしまったのは何とも皮肉に感じられてしまう。

前記したように、この「Vガンダム」にはもはや生理的に受け付けられないようなグロテスクさがある。このグロテスクな演出は、自分が嫌いになった「Zガンダム」を好きになり、ガンダムという流れを残してしまったファンに対する嫌がらせにも思える。「Z」にて富野氏が大嫌いな部分、例えば自分の言いたかったものとは異なるニュータイプ論や物語のテーマ、商業主義に乗って作られた変形するモビルスーツといったものを手放しで喜んでしまったファンに対する復讐…というのは考えすぎだろうか。氏はよく「私はアニメ作家なので、フィルムを見てくれれば分かってもらえると思います」等と語っているが、この作品から富野由悠季というアニメ作家のやりたい事を読み取ると、

「ボクが嫌いな作品なんだから、キミ達も好きになっちゃダメなんだよ。『ガンダム』ってこんなに残酷なんだよ?酷いんだよ?ワケワカンナイんだよ?それにどうせ皆ボクのことを分かってくれないんだから、もうボクを引っ張り出さないでおくれよ!!」

というような事に私には見えてしまう。
よく、「Vガンダム」に対し、最も富野らしい作品…と評する人がいる。本人があちこちで「忘れた」的な、捨て鉢な意見を吐いている作品なのに、だ。皮肉な結果な気もするが、確かに富野氏の怨念というか、アニメ界…いや、もっというと人間に対しての憎悪がもっとも色濃く出たのはやっぱり「Vガンダム」であろうし、そういう意味では「Vガンダム」は富野氏の当時の心情を投影した作品と言えるだろう。ただ、それが面白いかどうかは別問題で、「Vガンダム」での富野氏の心情に関しては、「エヴァ」における庵野氏に対する意見と同じく、その心情も理解できなければ理解したいとも思えない。アニメーション…には限らないのだが、基本はエンターティメントだと思うのだ。さすれば、作品を丸々私小説…しかもグロテスクなモノにしてしまった事を賞賛出来る筈がない。勿論、そういうエンターティメントがあっても良いとは思うのだが、「エヴァ」然り、「Vガンダム」を見て「スゲエ!!」と感じた部分も多々あれど、「うわー…」と引いてしまった部分の方がやっぱり多かったのだ。

更にこの「Vガンダム」ではスタッフに対する批判を散々各メディアにて繰り広げている。「基本がなっていない」だの、「ボクが仕切らなきゃ何にも出来ない」だの、「最近の若いモンは…」的な発言を盛んにインタビューにてネチネチと語っていた。しかし考えて見れば、そんな嫌味を言っている本人も極めてワガママな理由で面白い作品を作ることを放棄しているではないか!!

「目クソ耳クソを笑う」…確かに氏の言う通り若手スタッフの不甲斐なさというものは在るのかもしれない。しかし富野由悠季という人間はそれを指摘してはいけない立場にあるのだ。「機動戦士ガンダム」という一つのエポックメイキングを打ち出し、「アニメは子供達だけのものではない。こんなスゴイことも出来るんだ!!」とファンやクリエイター達に希望を見せた富野由悠季という人間が以降何をしてきたのか?そう、ワガママな逃避に終始して何にもしていないのである。つまり、自らが若きクリエイター達に希望を見せておきながら、自らがその先導をするワケでもなくひたすらにワガママを貫いただけなのだ。

「親の背中を見て子は育つ」ではないが、そんな氏の言動を見て、希望に燃えていたクリエイター達も「あ、やっぱりアニメって大した事ないんだな」と絶望し、努力を辞めてしまったのではないだろうか?

この「Vガンダム」以降、もう一つ富野氏は「∀ガンダム」を作っている。富野氏は「Vガンダム」をやらず、先に「∀」をやって「ガンダム」をとっとと終わらせるべきだったのだ。いや、突き詰めて言えば泥沼論になってしまうが「Z」という続編を作った事で富野氏の「ガンダム」は最終的に迷走する、というのが宿命つけられていたのかも知れない。少なくとも、氏自信のつまらないプライドから来るグロテスクで陰険な復讐劇を見せられ、挙句の果てに攻撃までされるファンはハッキリ言っていい迷惑である。
第一、富野氏がこの「V」でやった事は、「援助交際でやることはやっておいて『こんな事じゃいけないよ』と相手に説教するオッサン」と大差ないんじゃないか?


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