ガンダムらしからぬ、でもガンダムらしい作品

機動武闘伝Gガンダム

1994年 全49話 サンライズ テレビ朝日系放送
声の出演:関智一、天野由梨、秋元洋介、堀秀行、飛田展男、他

簡単解説
人類総人口の6割がスペースコロニーへと移民した未来世紀では、人類を滅ぼしかねない各国の軍事衝突は廃止されていた。そしてコロニー国家の主導権は4年に一度地球をリングにして開催される「ガンダムファイト」にて決定されるようになっていた。コロニー各国は最強のモビルファイターとしてガンダムタイプを次々と出場させる。物語は第13回大会が開催され、1人の男が地球に降りてきたことから始まる。その男の名は「ドモン・カッシュ」…。彼は一枚の写真を見せてこう尋ねる。
「この男を知っているか?」


ロボットアニメ空前のヒットを飛ばした「機動戦士ガンダム」は、次々と続編が作られシリーズ化していった。そしてその度に新しい設定(イヤミ)と宇宙世紀の歴史が刻み込まれ、「ファーストガンダム」が描いた時代を中心とした「宇宙世紀」と呼ばれる大きなSF空想史が誕生したのは皆さんもご存知のことだろう。

しかしその「宇宙世紀」の世界観が完成すればするほど、逆説的に新作ガンダムのインパクトは薄れていってしまった。それはあまりにも「ガンダム」の制約、言わば「お約束」が多くなり過ぎたからであろう。例えば「ニュータイプ論」やビームライフル、ビームサーベル、シールドの「3種の神器」、更にガンダムのデザイン、前述した「宇宙世紀」といったものである。主人公の性格や環境、メカ設定や敵対する組織の構図を変えても、結局「ガンダムの亜流」にしか見えなくなってきた、そんなマンネリ化が進んできた時代にこの「機動武闘伝Gガンダム」は現われた。

なんと恐ろしい事に、この「Gガンダム」は今まで作り上げてきた「宇宙世紀」を完全に無視した世界設定を持つ正に「怪作」であったのだ!!宇宙世紀のお約束ではスペースコロニーは円筒形をしているのだが、「Gガンダム」では違う。例えば「ネオジャパン」は日本列島そのものの形をしているし、ネオアメリカは星の上に自由の女神が立っている。更には登場するMS(「Gガンダム」では「MF=モビルファイター」と呼称する)はデスアーミーやチョイ役を除けば殆どがガンダムである。宇宙世紀を信奉して来た在来のファンは思わず「何じゃそりゃあ!!」とツッコミを入れたことであろう。それほどこの「Gガンダム」の世界は「宇宙世紀」とは異質だったのだ。

更にその登場するガンダム達である。主人公「ドモン」の乗るシャイニングガンダムは鎧武者をモチーフとした「ファーストガンダム」を更に突き詰めた「鎧武者そのもの」であるし、ネオアメリカは2丁拳銃にアメフト&ボクシングスタイル、ネオチャイナは両手が龍、ネオフランスは三銃士を思わせる貴族の格好…メキシコ代表はテンガロンハットにサボテンで、オランダ代表は風車、インドはコブラ…「名は体を表す」ではないが、なんとも国際色豊かなのである。

特に主役機であるシャイニングガンダムはドモンの「でろぉぉぉぉっ!!ガァァァァンダァァァァム!!」という叫びに応じてある時は噴水の中から、またあるときは地面の中から登場し、搭乗シーンには必ずテーマが流れる。更に「シャイニングフィンガー」なる必殺技を持ち、操縦方式もレバーやペダルではなく搭乗者の動きをトレースする「ジャンボーグA」や「闘将ダイモス」方式である。挙句の果てに大ボス的存在の「デビルガンダム」は「自己進化」「自己増殖」「自己修復」が可能な細胞を持つバケモノという凄まじい設定を持っているのだ。

そしてぶっ飛んでいるのはガンダム達だけではない。登場するキャラクターもクセモノ(ゲテモノ、と言ってもいいのかも知れない。無論ホメ言葉として)揃いなのだ。いきなり銃弾を素手で受けとめる主人公・ドモンを筆頭に、彼の師匠として登場する東方不敗マスターアジアはデスアーミーを布切れ一枚で倒し、更には「ゲルマン忍術」なる謎の術を使うシュバルツ・ブルーダーやチボデーギャルズなる美女軍団をはべらかすボクシングチャンプのチボデー・クロケット、セー○ームーンのようなMFに乗るアレンビー・ビアズリー等…挙げ出したらキリが無い。正にトンデモキャラクターの目白押しなのである。そういった連中が熱く、壮絶なドラマを繰り広げるのである。

こういったハチャメチャな設定を持つ本作は、アニメ誌を始め各所で激しい賛否両論が繰り広げられた。「Gロボ」でも行われた今川監督の「原作を持つ世界観をすべて破壊し、そこに新たな世界を創造する」という演出手法はその目的通り、「宇宙世紀」という価値観を全て粉砕してしまったのである。これでは「宇宙世紀原理主義者」は納得出来ないし、受け入れることも困難であったろう。

しかし、「宇宙世紀」でないからといってこの「Gガンダム」はツマラナイ作品なのか?といえばコレが全く逆、非常に面白い作品なのである。
どのくらい面白いかと言うと、シャイニングフィンガーのテーマが流れ出すと思わず堅く握り拳を作ってしまう程…コレこそが「ナチュラルボーンエンターティナー今川監督」の真骨頂であろう。作品全体があまりにもストレートで、カタルシスに満ちているのだ。小学生を中心に「Gガンダム」のガンプラがヒットを飛ばし、一部の模型雑誌で人気を読んだのもビジュアルからダイレクトな興奮を与えてくれるエンターティメント性と、壮絶なまでの高いドラマ性が正当な評価をされてのことなのだ。

このダイレクトな表現の演出方法は「ファーストガンダム」に見られた「スーパーロボット的演出(大惨事の「機動戦士ガンダム」参照)」に通じるものがある。しかし、この「Gガンダム」、一部のガンダムファンからは、宇宙世紀ファシスト共の常套句である「ガンダムである必然性を感じない」という批判を筆頭に、

「ガンダムファンにとってはこの作品自体がデビルガンダム」
「子供ウケを狙い過ぎ、その代償に大切な何かを失った」

といった困った批反を展開している。

もちろん、今までの俗に言う「宇宙世紀」というバイブルを丸っきり無視して作られた突然変異的なこの「Gガンダム」に違和感を感じるのは当然の事だとは思う。だが問題は、宇宙世紀を信奉している連中の「ガンダムとして認めない」という論法である。
考えて見れば、ガンダムがオフィシャルにこだわるようになったのは「センチネル」の事件以降、本格的に「正史」なんて語られるようになるのは、いわゆる「アナザーガンダム」が登場したごく最近であるような気がする。つまり、逆に言えば「正史」なんて言葉を使うのは比較的若いファンなのではないだろうか?

年齢にすれば20代前半から10代半ばまでの世代である。この年齢のファン(平成14年現在)は「ファーストガンダム」を原体験に持たない世代である。つまり、再放送にて「ファーストガンダム」を見てファンになったか、「Z」以降のガンダムを原体験として持つ世代、もしくは「W」辺りをテレビで見てガンダムにハマり、ビデオ等の媒体で「宇宙世紀ガンダム」を見た世代である。
彼等は、例えば模型誌であったり、インターネットの「ガンダム系サイト」といったモノに一番影響を受けるであろう世代とも言える。そんな世代が、果たして「ファーストガンダム」をエポックとして捉えられるものなんだろうか?

どんなメディアでも、一番見て面白い時、つまりは賞味期限のようなものがある。特にそれが時代と共に進化していくフィクション世界であれば尚更だ。ここで誤解が無い様に言っておくが、私が言うのは「ファーストガンダムを原体験として持たない人間が偉そうにファーストガンダムを語るな」というような事では断じてない。私が言いたいのは、「Z」や「0083」、「W」と言った作品を「ファーストガンダム」より先に見ている世代に「ファーストガンダム」がエポックとして世に認められた理由、「フィクションであるロボットアニメに初めて人間同士が戦う戦争というリアリティを持ち込んだ」というモノを認識出来るのだろうか?という点である。

言わせてもらえば私自身、「ファーストガンダム」を原体験として持っていない。だから、雑誌等で見聞きした当時の反響のスゴさを知り、そのロボットアニメ界のエポックとしてのガンダムを知ったクチである。しかし、物心ついた時には既にリアルロボットが世間に溢れていた私は、そんな環境で「ファーストガンダム」を見て演出的な魅力は感じたが、エポックとしての存在感を感じることは出来なかった。「機動戦士ガンダム」初回放映時私は1歳…見ていたとしても覚えている訳が無い。

そういった事を考慮すれば、「Gガンダム」に対して「認める、認めない」という論争をやらかしている連中は、実は各オタク系文献にて今現在でも頻繁に語られる「ファーストガンダムは偉大なエポックであった」という文章を見聞きし、それを鵜呑みにしてしまっているだけなのではないだろうか?

「Gガンダム」に対し、ファーストガンダムを原体験として持つアニメファンで、「ガンダム」としての違和感は感じている人はいる(と、言うか皆なんだが)が、「認める、認めない」なんて不毛な意見を言う人を私はあまり知らない。「ファーストガンダム」を原体験とするファンの中には、「Z」以降のファンに「ガンダムと言えば?」という問いをすれば10人中7人くらいは答えるであろう「ニュータイプ」という設定に対してすら、「富野監督の逃げ」として嫌っている人もいる。直撃世代と後見世代の「ガンダム」の認識の違いは意外と大きいのだ。本当の江戸時代の生活と、時代劇に描かれる江戸時代の違いのようなものか…。

現在、ゲームにしろムック本にしろ…俗に言う一年戦争ばかりにスポットを当てる傾向にあるのも、実は原体験としての「ファーストガンダム」、つまりは情報としてのエポックしか知らない世代のファンが必要以上に「ファーストガンダム」を神聖視してしまっているのが原因なのではないだろうか?(いや、そう仕向けている某企業と言ってもいいのかも知れないが)

そんな流れがあるからこそ、スーパーロボットアニメに「戦争」という調味料を加えた「ファーストガンダム」に対し、この「Gガンダム」では「宇宙世紀」で築き上げた「リアルなアニメ」という虚像を破壊し、その上で新たな「ガンダム」というスタイルを築こうとしたのだ。それはゲームだの新作OVAだのを追いかけて、オフィシャルだの裏設定だのというものに泥濘している限り…したり顔で「ガンダムとは云々…」なんて考えている限り到底辿りつけない境地なのである。

つまり、「Gガンダム」に対する支持、不支持はともかく、「Gガンダム」の面白さに関してはもう素っ裸になって、「ガンダムらしさ」なんて煩わしい部分を真っ白にして初めて水のひとしずくが見えるというシロモノ…。言わば、見る側にも「明鏡止水」の境地を要求している訳だ。頭から否定的な意見を抱えていたら楽しめる訳がなく、そんなファンに冷静な作品評が下せるとは私には考えられない。

つまり、「Gガンダム」とは、実はガンダムファンに対する挑戦だったのではないか?そういったスタイルを取った事こそ「Gガンダム」が「ガンダム」の中で異端視される本当の理由なのではないだろうか?
それは今までの「ガンダム」に、宇宙世紀に拘る余り、ファンが陥った「面白いガンダム」ではなく「ガンダムだから面白い」というズレに対する反発、挑戦である。つまり、

「コレだけ世界観を崩した『Gガンダム』に対しても、お前等はまだ『ガンダム』というちっぽけなモノサシで計り続けるのか?」

という事。
そう考えると、「Gガンダム」劇中の名セリフも違って聞こえて来る。

ガンダムマニア、アンタは間違っている!!
あんたが抹殺しようとする『Gガンダム』もまた、バンダイとサンライズの都合の中から生まれたもの…いわば『ガンダム』の一部!! 
それを忘れて何がアニメの…ロボットアニメの革新だ!!
そう、共に生き続ける他作品を抹殺しての理想郷など、愚の骨頂!!!

…この「機動武闘伝Gガンダム」もある意味では前作「機動戦士Vガンダム」同様、「ファーストガンダム」への回帰であったのだろう。
但し、その手法は富野氏が展開した「Vガンダム」の、「グロテスクに演出してファンが嫌うガンダムを描く」というモノではなく、至極まっとうなスーパーロボットとしてのガンダムを魅せてのもの。そしてそれは作品の魅力をムック本、アニメ誌といった情報媒体から切り離し、「ガンダム」という名を冠する作品の中で初めて「ガンダム」という大前提での評価に対しての抵抗であったのではないだろうか。

つまり、「Gガンダム」はそれまでのガンダムのアトヅケ的な作品の作り方を放棄し、新たな「ガンダムの中のエポック」を狙ったものだったのである。他のコラム(「ブラックガンダマーズ」等)で私が繰り返し話している通り、「G」以降の、いわゆるアナザーガンダムと呼ばれる作品群の「ガンダム」という名前は結局の所「ガンダム」というネームバリューによって安定を狙ったモノであろう。そしてそのアナザーガンダムへの否定的意見の代表例

「アナザーガンダムには『ガンダム』である必要を感じない。」

というモノは、実は逆説的に捉えれば「アナザーガンダムは別に『ガンダム』でなくても成功したかもしれない作品」という事の証明とも言える。しかし考え様によっては、アナザーガンダムの中でも一際異彩を放つ「Gガンダム」だけは、もしかしたら「ガンダム」でなければならなかった作品と言えるのかも知れない。つまり、「Gガンダム」とは「ガンダム」の名を借りて、「ガンダム」というモノの内包的な問題を曝け出し、否定してのけた作品なのだ。

ついこの間までネット上でウザッタイ論争が続けられていた「ガンダム種」の監督である福田氏辺りに言わせると、この「Gガンダム」は「逃げ」なんだそうだが、「種」と「Gガンダム」、同じく古株ファンから賛否両論どころか叩かれまくった「ガンダム」であるが、その拒絶され方はその実まったく違う。
「種」の場合、否定的意見がもはや意見ではなく「失笑」というレベルだったのに対し、「Gガンダム」に対する否定的な意見と言うのはもう完全に怒りだけなのだ。そしてその怒りとは、「Gガンダム」のやってのけた既存の『ガンダム』に対する挑発に乗ってしまっていた証拠に他ならない。実は「Gガンダム」に怒り狂ったファンは、無意識下で自分でも分かっていたシリーズとしての「ガンダム」の抱える問題をあからさまに否定された事に対し腹を立てていたのではなかろうか?

だからこそ、この「Gガンダム」は、「『ガンダム』である必要が無い」作品であると同時に、「『ガンダム』でなくてはならない作品」であったとは考えられないだろうか。そしてその手法と言うのは実は多分にファーストガンダムに被るモノなのだ。固定されたベタなプロットを否定するという作劇は、かたやリアリティの確立であったり子供だけの視聴に留めないドラマ作りをしてのけたファーストガンダムに対し、「Gガンダム」ではカタルシスを呼ぶ問答無用のドラマと理不尽なまでに濃い演出という手法の違いはあるものの、実は新しい「面白さ」を模索するという点においては同じなのだ。そういう意味では「Gガンダム」もまた、紛れも無く「ガンダム」の原点回帰だったのだ。

さて、余談になるが、第13回ガンダムファイト決勝の会場となったネオホンコンには、肉マンを一口食べただけで

「う〜ま〜い〜ぞぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

と叫ぶお爺さんがいたんだそうな…。(笑)


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