アニメ「ベルサイユのばら」第20話より 「フェルゼン名残の輪舞」
脚本:篠崎好 絵コンテ:さきまくら 演出:竹内啓雄


最近、どこぞのアイドルが深夜帯に放送されているドラマの影響で、「不倫はスリルがあって素敵」等とほざ…発言した事が一部で話題になっている様だが、彼女の場合、発する言葉の悉くが「炎上商法」を思わせる…言わば「売り込み術」にしか聞こえない。まぁ、アイドルの筈なのにこんな形で注目を集めざるを得ない…という時点で最早彼女を熱心に応援している人には申し訳ないのだが、「ご苦労なこった」としか思えない。
そんな、割とどうでも良い話を冒頭に持ってきてレイコックは一体何を言いたいんだ?というと、今回紹介するエピソードも、不倫…禁じられた恋が深く関係するエピソードなのだ。今回も私の思い出話が関係する話で恐縮ではあるが、とりあえずいってみましょ。

エピソード解説

王妃マリー・アントワネットとフィンランドの貴族・フェルゼンの禁じられた恋の噂は宮中はおろか、フランス国内に知らぬ者はいない程にまで広がってしまった。許されない恋に苦悩するフェルゼンとアントワネット、そして、密かにフェルゼンに想いを寄せ胸を焦がすオスカルと、彼女に打ち明けられぬ想いを寄せるアンドレ。
そして開かれる国王主催の舞踏会。王妃とフェルゼンに対し好奇の視線が浴びせられ、下品な陰口が囁かれる宮廷に現れたのは、いままで着た事が無い正装に身を包んだオスカルだった。


ご存じ、「ベルサイユのはら」は、私が小学生位の頃に「アタックNo.1」や「エースをねらえ」「はいからさんがとおる」「ルパン三世」「ド根性ガエル」等と並んで、夕方の時間帯に再放送がされていた作品である。

ちょっと思い出話になってしまうが、小学生の…しかも私がガキの頃の時代は何と言うか…あんまりこの辺は男女差別だの男尊女卑だのジェンダー問題だの、あまり関わりたくない思想の持ち主に突撃をかけられかねない分野にも絡むので正直書く事に抵抗があるのだが、今の時代以上にガキのコミュニティーの中に男は男のものを、女は女のものを、という不文律みたいな「オキテ」が存在した。この「ベルサイユのばら」は原作が少女漫画で、主人公も男として育てられても女は女、オマケに絵柄がアレな訳だから、その不文律に抵触してしまう作品の1つだった。なんせ、オープニングからして薔薇の茨を纏った全裸の女、という作品なのだし。

ただ、私はガキの頃は、私に対して無駄に気が強い上に要領と外面だけはいい姉にチャンネル権を殆ど抑えられており、その影響で嫌でも家のテレビでは「ベルサイユのばら」が流れていた。まぁ、ガキの頃からへそ曲がりだった私はコミュニティーからは片足を出している様なガキだったのだが、上記の「不文律」を犯すめんどくささだけは身に沁みて知っていたので文字通り「ベルサイユのばら」に対しては斜に構えて見る事しかしなかったのだが、そんなクソガキすら引き込む程の強さを持った作品でもあったのだ。
さて本題。このエピソードのキモは、禁じられた愛に身を焦がすフェルゼンとアントワネット、フェルゼンに想いを寄せるが当のフェルゼンは自分の主人であるアントワネットしか眼中に無く、伝わらぬ想いに苦悩するオスカル。トドメに、長年従者としてではなく女として主人であり友であるオスカルを見ており、その叶わぬ恋に身をやつすアンドレ…この4者4様の想い…それが痛烈に描かれている。

ちなみに、このエピソードの直前の19話から総監督が長浜忠夫氏から出ア統氏(役職はチーフディレクター)に交代しており、主人公のオスカルも「"男として育てられた"女」から「男として育てられた"女"」としての演出が強められた気がする。そういえば続けてみると、私見ではあるが体つき自体が序盤のものより女っぽく描かれている気がする。長浜氏のオスカルが正義感や倫理感を前面に出し、女がやってる男、風なのに対し、出ア氏の場合は男をやっている女、なのだ。何だか分かり難いとは思うが、オスカルを男装の麗人としてではなく、男として生きる事を宿命づけられてしまった女を「女」として強く描いている風に見えるのだ。

何より、監督交代した19話「さよなら、妹よ!」では、ポリニャック伯婦人の娘・シャルロットが政略結婚で有力貴族(ロリコンで嗜虐趣味もある風な中年男。大してシャルロットは11歳)に嫁がされそうになり、その嫌悪感から精神をむしばみ自殺する…という強烈なエピソードだった。しかも、ジャルジェ家の居候となっている少女・ロザリーの生みの親がポリニャック伯婦人という衝撃の事実まで発覚する事になる。後半の「ベルサイユのばら」は、より女の物語としての色が濃くなっている様に感じる。いや、20話におけるフェルゼンやクライマックスへ向けてのアンドレの描写を考えれば、正確に言えば、女達とその女を愛した男達の物語、と言うべきか。

さて、ココで私の思い出話に立ち戻って欲しい。そう、本作を「女達とその女を愛した男達の物語」となると私がガキだった頃のガキの不文律…「オキテ」に抵触してしまう。そこで語っておきたいのがこの20話から登場するアニメオリジナルキャラクター・吟遊詩人である。彼はファンの間では「アコーディオンおじさん」等とも呼ばれるキャラクターで、片目、片足が不自由な痩身の中年男で、いつもセーヌのほとりで手風琴を弾きつつ詩を詠んでいる人物だ。

少女漫画、恋愛ドラマ…それ以外の顔が「ベルサイユのばら」にはある。そう、「事実を元にしたフィクション」ならぬ、「史実を元にしたフィクション」…歴史ドラマとしての一面だ。この吟遊詩人の詩は以降も要所要所で登場しては、当時のフランス市民の気持ちを代弁しているのだが、クライマックス…つまりはフランス革命が近づくにつれ、その詩は鬼気迫るというか、より激しいものになっていく。コレがある意味時限爆弾のタイマー的な役割を果たしている。革命の足跡がだんだん…だんだん迫ってくるのが非常に分かり易く、かつ臨場感を持って視聴者に伝えてくれている訳だ。

そして、彼の初登場時の詩がコレ。

たった一杯の酒。こいつが命。色も恋もねえ。
一日中働きづめでやっと手にしたもの、それがたった一杯の酒。
たった一杯の酒。こいつが命。
色も恋もねえ。あるとすりゃあ、借金と飢えた家族。それぽっきり。
ベルサイユの事なんか知らないねえ、
オーストリアから来た王女だって、スウェーデン貴族との火遊びごっこだって、
知らないね、俺達は。
ベルサイユの事なんか、これぽっきりも知らないねえ。
それより欲しいぜ、たった一杯の酒、たったの一杯…


この詩を、この20話で詠わせた事が先ず凄いのだ。前述したマリー・アントワネットとフェルゼンの禁じられた恋、そしてフェルゼンへのオスカルの恋心、アンドレの決して打ち明けられぬ愛…そんなドラマをやってる中で、この詩なのだ。楔を打ち込むにしても何でこんな所に…となりかねない演出に映るかも知れないが、敢えてこんな所に打ち込むからこそ極めて効果的な楔になったのではないか。計算しての演出ではあるのだと思うのだが、ココでコレをやってしまう度胸には感服させられる。この演出…そして吟遊詩人というキャラクターの登場で、歴史ドラマとしての「ベルサイユのばら」の側面がより際立ち、ラストへの盛り上がりに繋がったのは間違いないだろう。

そして、吟遊詩人は歴史ドラマとしての側面を引き立たせてくれた事で、ガキの頃の私に不文律…「オキテ」に対して「ベルサイユのばら」を見ても良い「イイワケ」を作ってくれてもいたのだ。
「コレは少女漫画じゃなくて歴史のアニメなんだ」と。

オタク視点的ポイント

1.長浜氏の途中降板の理由だが、キャスト…オスカル役の田島令子氏と演技プランで意見の相違があった事が発端と言われている。ちなみに田島令子氏はNHKの大河ドラマや連続テレビ小説にも出演している女優で、最近では実写版「寄生獣」で田宮良子の母親役で出演する他、バラエティ番組でもしばしみかける。アンドレ役は俳優の志垣太郎氏で最近ではバラエティ番組での露出が多い。余談だが、二人とも共演はしていないが森田健作千葉県知事の出世作「俺は男だ」に出演していた。

2.吟遊詩人は視力を失いつつあるアンドレと会った事がある。その際はアンドレが視力を失いつつある事を見抜き、

人はこの世にふたつの光を見る
ひとつは陽の光、星の光
目さえありゃ見える光さ
そしてもうひとつは
人の心と希望の光
こいつは目があるだけじゃ見えやしねえ
でも、必要なのはこいつの方さ
こいつさえありゃ生きていける
とことん落ちても生きていける


と詩でエールを送っている。実は二人は命日が一緒。オスカルは吟遊詩人が死んだ後、息子(声:野沢雅子氏)に担がれてセーヌに向かっている所に遭遇している。

3.「ベルサイユのばら」の原作者・池田理代子氏はアニメ版を「一度も通しで見ていない」と発言している。アラン等アニメ化に際し改変されたキャラクターの処遇に納得が言っていない節があり、原作の続編的位置づけの作品「栄光のナポレオン エロイカ」にてアニメとは別の結末を与えている。

4.オスカルは男装の麗人と呼ばれる類のキャラクターの草分け的存在だが、「ベルサイユのばら」のヒット時は実際にオスカルに操を立てる様な意味合いで婚約者や恋人を捨てた女性が数多くいたんだとか。尚、オスカルは「あしたのジョー」の力石徹に続く「実際に葬儀が行われた架空のキャラクター」でもある。

5.吟遊詩人はアコーディオン(バンドネオン?)を演奏しながら詩を詠むが、実はこの時代にはまだどちらの楽器もなかったりする。これらの楽器が登場したのは19世紀に入ってからと言われている。


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